檀家さんとお会いしていろいろとお話を伺っておりますと、ちょっと簡単にはお答えしづらいことも多々あります。

仏教とは行いの宗教ですよ。行いこそがさとりの姿ですよ、という話がよくわからないというのは尤もなことですし、「諸悪莫作。衆善奉行」とはいうけれど、そもそも、良いことってどんなことですかという問いがでてくるのも、これも尤もなことであります。

行いというものをを考えるとき、「個性」という言葉を使うと意外にわかりやすいかもしれません。
個性とは、その人のひととなりです。何をどう考えどのように選び取り、どう行動したかがその人の個性をつくりだします。個性とは、自己表現などではなく、その人の人生そのもののあり様を示すものです。
かなり極端な言い方をしますが、「あの人はまじめだ」「あの人はずるい」などという見方こそがその人の人生を端的にあらわしているといっても良いかもしれません。
例えば小説や漫画に描かれるキャラクターの性格は、その行いから判断できるわけです。いつも力で物事をすすめようとするのなら「乱暴者」、いつもこつこつと投げ出さずやり遂げるから「努力家」といった具合に。

それぞれの物事にとりくむにあたり、どのように行うか、その行いの根底にある、自分をその行動に導くどのような価値観を選び取ったかがその人の個性です。人から真面目だと思われているならその人は真面目に行動してきているのでしょうし、人からずるいと思われているのなら、事にあたってずるく立ち回ってきた結果でありましょう。しかし、行いがその人をつくりだすのですから、ずるい自分が嫌なら、ずるい行いをしないという選択をすればよいだけのことですし、「あの人は若いころ無茶をしたが、いまは別人のように穏やかである」というように自分で自分を変えることができるわけです。

では、よい自分、よい行動とはなにをもととしてつくられるのかといえば、

仏教とは苦しみを離れて安らかになる教えであり道でありますから、
まさに苦しまず安らかであるように行動するということになります。

かなり大雑把な言い方をすれば、人を苦しめるのは貪欲(むさぼり)・瞋恚(いかり)・愚痴(無知)というこころ(これを貪瞋痴の三毒といいます)であり、要はなにかといえば、自分の欲のままに思い通りにいかないことによる苦しみです。

好きなものが手に入らない、思い通りに物事が進まずに腹をたてる、今現在を受け入れられず不満でしかない、それらはすべて自分を中心に考えるからこそ起こるこころです。自分の思いへのこだわりと物事へのむさぼりこそが苦しみのもとであるとお釈迦さまは説かれ、それらの思いを離れるように説かれました。

一切のこと、ものは移り変わっていくのに、その移り変わってゆく中にあって、眼で感じ、あるいは耳で感じ、あるいは舌で感じ‥‥そして変わってゆくものに対して幸せであると感じている、すべて変わってゆくもの、なくなってゆくものに対してこだわりむさぼり、幸せであると感じるのは、自己というものがあると思うからに他なりません。その自分も変わってゆくものなのに、です。

しかし、自己というものには決まった形や実体があるわけではありません。自己は作っていけるし変わるものであるから‥‥

 

と、ここまで書いてはみたものの、やっぱりくだくだしいものになってしまいました。
端的に、わたくしは「くどい」のでしょう。

わたくし個人としては「阿含経」をよく好んでおりますので、時間のある時に、出典などもお示ししながらとも思う次第です。よく好まれますところの「法句経」などは簡潔ですが、偈というかたちでいきなり結論だけが書いてあるようなものですからわたくしのような「くどい」者にはちょっと不向きなのかなとも思います。

なんとか簡単にお話しできないものか‥と試みましたが道はまだまだ遠いようです。
一度に多くのことを伝えられないというのも事実でしょうし、一つ一つのテーマごとにまとめてみるのも良いかもしれません。

まずは最初の試みでありました。