前回。いささかくどいことを書き連ねたのですが、要は「仏教とは、苦しみを離れて安らかになる教えであり道である」ということを書いていたわけです。では、何をどう行えばいいのかといえば、たとえば『大般涅槃経』のなかに次のような一節があります。

「そなたたちがそれらをよく学び、その梵行が長時にわたり永続するように、
それが多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために
世界への憐みのために、人・天の繁栄のために
利益のために、幸福のためになるように
親しみ、修し、
何度も行わなければならないという、そのもろもろの法とは何か。
すなわちそれは
四念処、四正勤、四神足、五根、五力、七覚支、八聖道です。
比丘たちよ、これらが私のよく知り、説いてきた法です。」                                                     (大蔵出版『パーリ仏典 長部大篇Ⅰ』片山一良 訳 より)

四念処、四正勤、四神足‥‥いろいろと書いてありますが、これらの行いのすべては、いかなるものも移ろいゆくという、諸行無常なる世界のありようからのものです。「諸行は無常である」と知らなければ、例えば、正念などの正見、正知は生じないのです。

かなりおおまかにいえば、仏教が言うところの正しい行いや善行、正しい思いや考えは、全て、「諸行無常」を土台としているということです。
一切は変わってゆきます。もちろん自分自身も変わり作られていくものにすぎないので、どこにも自分という決まったものがないと知るべきですし、自分以外のあらゆるものも、それらを、眼で、耳で、鼻で、あるいはさまざまに感じることも、すべてそれは移ろいゆくのです。

移ろいゆくものを、移ろいゆくものとしてまっすぐに捉えることができれば、ものごとや自分自身をも含めた、あらゆるものへのこだわりやむさぼりを離れることができるでしょう。このように知るからこそ少欲となるのです。

知足とは、ものではなく、こころが足りていること。
着るもの、食べるもの、満足不満足は人それぞれではあるのですが、我慢とかやせ我慢などではなく、そもそも不知足がないことです。
ありのままに受け入れること。好悪の別や幸も不幸といったものはわれわれの中にだけあるのであって、それそのものが善であったり悪であったりなど、本来そのようなものとしてあるのではないのです。
例えば信仰ということを考えればわかりやすいでしょうか。
神だろうと仏だろうと、何者にたいしても、何も求めることをしないというのが知足の姿でしょう。すでに全ては現前にあらわれています。一切に求めず、求める自己を捨て去ることが大切です。

‥また大分くどくなってきましたので、少しくだけてみます。

恋人とデートしている最中に、たまたま別の異性に気を惹かれてしまい、気になって仕方がない‥などとというケース。
普段は、カップルとしておたがい当然のごとく意識しないで過ごしているというのに、突然、別の異性に欲が出てしまう。この欲に負けないように自分自身を克服していこうとするわけですが、態度や行為にあらわれなくても、例えばこころで怒っていればそれは事実怒っているのであって、それは愛でも欲でも同じことです。

「不知足の者は、天堂に処すと雖も、亦意にかなわず」
 これが、わたしたちを苦しめるのです。

ですから、あらゆるものに逆らうことのない自己、行為とそれが全く同じであるような自己、つまり、そもそも不知足のない自分を形成していこうとするのが、修行であり、そのような自己のありようこそが知足です。

 

少欲知足という言葉も含めてですが‥

仏道修行を言葉にすれば、「良いことをしましょう」、「ものを大切にしましょう」、など、どこが仏教なの?というようなものが多いと、そのように感じることもあるわけです。

が、なぜそのように行うのかを知ればこそ、ただの節約や倹約ではない仏道としての少欲が見いだせるし、我慢でも環境主義的なものでは全くない知足が見いだせるのではないでしょうか。

‥という、これももう一つの試みとして、でありました。