長雲山 龍泉寺の公式ホームページ 開基 小野寺左京亮友光

お知らせ

新型コロナ感染予防について

現在、新型コロナウイルスの感染予防のため曹洞宗の各寺院でもさまざまな対策がとられているところであります。 ひと頃に比べてだいぶ落ち着いてきてはいるものの、感染予防を欠かすことができない状況が続いております。また、今後、イ …

永平寺団参延期のおしらせ

本年4月6日よりの永平寺への参拝旅行は、昨今の情勢に鑑み、来年4月に延期となりました。 お申込みいただきました方、先に代金をお預かりいたしておりました方には、既に連絡・返金済みです。また延期のキャンセル料はかかりません。 …

今年も注連縄をご寄進いただきました

毎月10日はお稲荷様の日です。本堂のお稲荷さまに諷経し、外の稲荷堂で同様にお経をおあげいたします。 鎮守の神様ですから全員でお参りいたします。本日は1月ということもあり、龍泉寺の先住、智雄大和尚の三人の娘が揃ってのお参り …

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。 昨年中は皆様に大変お世話になりました。どうか本年もよろしくお願いいたします。 12月20日に役員・世話役人の会議と反省会をおこない、その際に大般若経の修復の件がすすめられました。 年末の …

大般若経修復勧進のお知らせ

当山の寺宝の一つであります大般若経の修理・修復につきましてのご報告とご案内を申し上げます。 現在、徐々に破損がすすんでおりますため、数年前より修復作業を進めておりますが、全六百巻の修復には時間がかかります。 この作業を速 …

位牌堂配置図の設置

お盆までに完成させたいと作成いたしておりました「位牌堂配置図」ができあがり設置いたしましたのでお知らせいたします。 位牌堂への渡り廊下の中ほど、太鼓橋を渡ってすぐ右手に掲示いたしました。 各家の位牌壇の氏名の書き換えも同 …

Blog

今年のサツキ

今年の春はやや温度が低めで、なかなか植物にはもどかしい時期であったでしょう。その分、開いた花が長持ちするということもありましたが、やはり季節なりに暖かくなってほしいところ。 さいわい、五月末あたりから六月の今くらいまで暑 …

今年の三羽目〈すずめ〉

家を出がけに、というより玄関を開けて外に出ようとした瞬間、いきなり目の前に落ちてきたものが。 なんだろうと思って足元に目を遣ると『うぎゃぁ!』と大口を開けている子雀がおります。びっくりするのは仕方ないにしても、なにもそん …

古典にならう

つい先日のことですが、年回のご供養にいらした檀家さんとのお話の中で「ご供養を通して亡くなられた方によいご縁を紡いでゆくのですよ」ということを申し上げましたところ「孟母三遷ですね」とお応えになられた方がいらっしゃいました。 …

貞子さん・・・

つい先日、寺族さんたちが居間でまったりしておりましたので、わたくしも一緒に、と思いテレビに目をやりましたら・・・。 おや?和製ホラー?ん?貞子?どうも「リング」「螺旋」からはじまった貞子シリーズを一挙に放映していたらしく …

お寺の桜

今年の桜。4月19日頃にはもう4分咲き状態。冬の雪がほとんどなかったせいか、目ざめは例年より早かったようです。 とはいうものの、4月にはいってからなかなか暖かい日がやってまいりません。おかげで花の散るのはもう少し先になり …

韋駄天さま

韋駄天さまはもともとインドの神でスカンダというお名前です。 インドには三千以上の神々がいるといわれていますが、日本にもたくさんの神さまが紹介されています。神々の王をインドラということは知らなくても、帝釈天という名前でなら …

龍泉寺開創

 龍泉寺開創  永禄年間
(1558~1570)
 御 開 山  増田町
満福寺3世梅翁正倫大和尚
 開  基   浅舞城主 小野寺左京亮友光
(龍泉院殿即山清心大居士)

寺伝に、永禄年間(1558~1570)、浅舞城築城にあたり、浄土宗の草庵を移して菩提寺となしたと伝えられている。但し、ご開山梅翁正倫大和尚は、文亀元年(1501)年に遷化していることと、二世の梅室壽泉大和尚がそれより先の康正2年(1456)に遷化していることから、勧請開山と考えるのが自然ではないかと思われる。同時期に同じく梅翁正倫大和尚によって創建された沼館蔵伝寺は文亀元年、または永正年間(1504~1521)の創建と伝えられている。

寺伝によれば、当山の歴代住職は次の通りである。
ただし、火災による焼失により記録が失われて確認できない点が多くあるのは、甚だ残念である。

当寺開山 梅翁正倫大和尚  文亀元年 6月17日(1501)
二世   梅室壽泉大和尚  康正 2年 4月23日(1456)
三世   天室祖貞大和尚          13日
四世   弘印天譽大和尚          30日
五世   峰室禅察大和尚           3日
六世   澤山智勝大和尚          16日
七世   将山源良大和尚          18日
八世   國洲大雪大和尚          24日
九世   欣峰智悦大和尚          15日
十世   超外玄紋大和尚          28日
十一世  大圓愚鑑大和尚          13日
十二世  夢宅古流大和尚           5日
十三世  南叟良天大和尚          13日
十四世  寶林崇泉大和尚           5日
十五世  少流觀印大和尚  宝暦 5年 1月 3日(1755)
十六世  本形觀極大和尚  寛延元年 6月 5日(1748)
十七世  洞嶽良仙大和尚  明和 7年 3月17日(1770)
十八世  奎嶽極光大和尚  天明 2年 2月19日(1782)
十九世  桂岩白程大和尚  天明 2年12月21日(1782)
二十世  卍外寛充大和尚  寛政 2年10月 3日(1790)
二十一世 辯中觀明大和尚  文化10年10月21日(1813又は文化元年1804)
本堂再建
二十二世 智徳大賢大和尚  文化14年 8月17日(1817)
二十三世 普禅大説大和尚  文政 3年 1月 7日(1820)
二十四世 禅橋大攦大和尚  不明
二十五世 玉潭見苗大和尚  天保 8年 5月11日(1837)
二十六世 大廣見秀大和尚  嘉永 3年 3月13日(1850)
二十七世 祖田秀英大和尚  明治 7年12月20日(1874)
二十八世 清岳智童大和尚  明治21年11月15日(1888)
二十九世 養山育祐大和尚  大正 4年12月12日(1915)
三十世  宙外育山大和尚  昭和33年 4月28日(1958)
三十一世 大業智雄大和尚  平成18年11月21日(2006)

また菅江真澄によれば(秋田叢書第六巻『雪出羽道「平鹿郡八淺舞村〇曹洞宗龍泉寺」』)次のように記載されている。

当寺開山 梅翁正倫大和尚  文亀元年 6月17日(1501)
二世   梅室壽泉大和尚        23日
三世   天室祖貞大和尚          13日
四世   弘印天譽大和尚          30日
五世   峯室禅察大和尚           3日
六世   澤山智勝大和尚          16日
七世   将山源良大和尚          18日
八世   國洲大雪大和尚          24日
九世   欣峯知悦大和尚          15日
十世   超外玄紋大和尚          28日
十一世  大月智鑑大和尚           13日
十二世  夢宅古流大和尚                       5日
十三世  南叟良天大和尚                     21日
十四世  寶林崇泉大和尚                       5日
十五世  少流觀印大和尚  宝暦 5年 1月 3日(1755)
十六世  本形觀極大和尚  寛延元年 6月 5日(1748)
十七世  洞嶽良仙大和尚  明和 7年 3月17日(1770)
十八世  奎嶽極光大和尚  天明 2年 2月19日(1782)
十九世  桂岩白程大和尚  天明 2年12月21日(1782)
二十世  滿外寛充大和尚  寛政 2年10月 3日(1790)
二十一世 辯中寛明大和尚  文化10年10月26日(1813)
二十二世 智徳大賢大和尚  文化14年 8月17日(1817)
二十三世 普禅大説大和尚  文政 3年 1月 7日(1820)
二十四世 禅橋大攦大和尚  不明

開基 小野寺友光公について

小野寺友光墓所

小野寺友光墓所案内

最後の浅舞城主(小野寺左京亮友光 天正18年:1590年 9月29日没)天正18年(1590)年、太閤検地の横暴な仕方に反発して起こった仙北一揆の責めを負い、自害したともまた戦死ともきく。しかしながら、一揆は9月下旬に起きたとあるうえ、一揆収束を10月半ばとみれば(上杉景勝の感状に、10月14日「千五百余成敗、悉追払得」との記載もある。)没年月日が一揆収束以前であるため、あるいは伝聞の誤りも考えられる。

さて、友光公がいつどのような次第でなくなったのかであるが‥

下総鮭延寺縁起という資料があるらしく、その示すところでは天正18年3月に、朝舞(浅舞)にて上杉景勝の士と鮭延秀綱の従者の間に諍いがあり、朝舞の郷民が上杉に与力したとある。

小野寺氏の客将であった鮭延氏が背いたのが天正9年であるとすれば、それによって最上の侵攻を招いたものとして、鮭延氏が浅舞衆に反感を持たれたのも頷けるし、のちの関ケ原で上杉方についた小野寺氏を鮭延氏が攻める展開になったのも、あるいはこの事件が伏線になっていたのかもしれない。この事件の結末として郷民数名が責めを負うこととなったが、浅舞城主が罰せられたとの記載はないようである。

また、菅江真澄による「友光塚」の由来を記した一節によれば、天正15、6年ころ、淀君のいいつけで巡検使がめぐりきた。が、権威に傲りあまりに横暴であるため、これをきいた友光は大いに怒り、密かにこれを討とうとしたという。結果、3000ほどの軍に浅舞を囲まれ、川を下って逃れようとしたが※1、討手もあり、新平川の小中島という処にあがり自害したとある。友光が巡検使を討とうとしたのは天正17年、自害は天正18年のことであるという。

秀吉の奥州仕置きが天正18年7月以降であることから、菅江真澄の記述もあいまいであり決定的なものではない。しかし、のちの最上勢との戦いぶりでは、浅舞の軍勢になみなみならぬ敵愾心が感じられる。上記の何が原因であるにせよ、城主の無念を晴らすべく、というのはもちろん想像に過ぎないのではあるが。

なお、前述の菅江真澄の記述により、友光の妻は馬鞍城主関口能登守の娘、友光の娘は柳田治兵衛尉の妻とある。また別の記述で小野寺義道の子とされる。一説に小野寺光道と同一視されることもあるが、小野寺光道には、「光高道盛信士」という戒名があるため、別人と考えるのが自然であろうと思われる。また、小野寺氏の嫡流また庶流も含めて、名には「道」の字がつけられることがほとんどであるため、この点からも、義道の子だとすることに疑問が残る。あるいは、輝道の弟である光明の系図に属することも考えられるし、浅舞の土豪が小野寺氏の一族化したか、あるいは小野寺氏が浅舞氏に入ったのか、資料の少ないことが残念である。郷土史に造詣の深い方々の教えを乞うものである。

本堂須弥壇には座像が祀られている。また、墓所は市の指定文化財となっている。

※1 浅舞は地下水が豊富な地域であり、『浅舞郷土史第六巻』に付録されている「浅舞城概略図」をみれば浅舞城は大宮川に囲まれた水城であったようである。(詳細は『浅舞郷土史第九巻』に記載あり)その造りは城や要塞というよりは優雅な館のようにもみえる。水に浮かぶそれゆえ包囲された状態から逃げることができたのであろう。

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今年のサツキ

今年の春はやや温度が低めで、なかなか植物にはもどかしい時期であったでしょう。その分、開いた花が長持ちするということもありましたが、やはり季節なりに暖かくなってほしいところ。 さいわい、五月末あたりから六月の今くらいまで暑 …

今年の三羽目〈すずめ〉

家を出がけに、というより玄関を開けて外に出ようとした瞬間、いきなり目の前に落ちてきたものが。 なんだろうと思って足元に目を遣ると『うぎゃぁ!』と大口を開けている子雀がおります。びっくりするのは仕方ないにしても、なにもそん …

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つい先日のことですが、年回のご供養にいらした檀家さんとのお話の中で「ご供養を通して亡くなられた方によいご縁を紡いでゆくのですよ」ということを申し上げましたところ「孟母三遷ですね」とお応えになられた方がいらっしゃいました。 …

貞子さん・・・

つい先日、寺族さんたちが居間でまったりしておりましたので、わたくしも一緒に、と思いテレビに目をやりましたら・・・。 おや?和製ホラー?ん?貞子?どうも「リング」「螺旋」からはじまった貞子シリーズを一挙に放映していたらしく …

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