「じぶん」はいつも2番目ですよ
今年の桜は例年より一週間以上も遅れてようやく満開となりました。その前後の天気が悪く心配いたしましたが、なんとか雨に散ることもなく、無事に過ごせそうです。寺族さんとふたりでお寺の境内を散歩しつつ桜を愛でるのも毎年のことではあるのですが、なかなか楽しいものです。
さて。今回も基本的には難しい言葉なしで書いていくつもりです。仏教の言葉は、それを使用した方が楽という時につかいます。そもそも、そのためのネーミングですしね。
①感じる力から命は生じる
わたくしどもは感覚をベースに生きています。身体がありますからね。感じる力といえば「眼耳鼻舌身意」。想像してみましょうか。見えない・聞こえない。かなり感覚は制限されますね。さらに匂いも味も感じられない。最後に残った感触も温度も一切感じられない。自分の存在、ものの有無すら感じられない。何一つ感じることができない状態で認識は生まれますか?といえばそれは無理です。その状態ではこころすら生まれない。感じることができてはじめて認識が生まれ心が生じる。仏教では感じることを「触」といいます。接触する。つながるのです。目は見えるもの、耳は音と花は匂いと舌は味と。自分を取り巻く、もの・人・状況・世界とつながっていく。
②意識が生まれるのは、ひとつのものとしてちゃんと認識するから
感覚は何と触れるのか。その対象を色声香味触法といいます。そうやってつながっていくことで心が生じ命が生じます。そしてそれを認識していく働きなり場所のことをそれぞれ眼識、耳識、鼻識…などというのですが、当然、別々のものと触れるので別々の認識。目で味はわかりませんし匂いもわかりませんでしょ。まぁ、これらが自己を形成していきます。意識、じぶんが生まれる。これを要するに、カレーライスを目だけで認識するなんて無理です、ということです。なぜかといえば、匂いも味もあるから。そういったものを全部ひっくるめてカレーライス。だから、目だけでも舌だけでもダメ。眼識や舌識など全部を「ひとつのもの」にまとめ上げなくちゃならない。そうしないとカレーライスを認識できないのだから仕方がない。ものがある。そのものは、五感全てに働きかけてくる。一つのものをいろいろ感じることができるのだから、感覚だってひとつにまとめなきゃ、ちゃんとものを認識できない。だから意識ができあがっちゃう。人間に意識があるのは、対象であるものや世界が色声香味触といった要素をもったひとつのものだから、それをひとつのものとして認識するためには、速行の路がまとまる必要があるからです。そもそも、仏教でいう心(citta)とは、積集・集起を意味する言葉に他ならないのです。
③感じる範囲の一部だけが気持ちいい。だからこの世は苦しいことばかり
例えば、目はすべてを見ることができるわけではないし、見え方も決まっています。シマウマより狭い範囲しか見えないし、虫みたいに複眼があるわけでもありません。光にしても素粒子にしても見えてないし判別できていない。感じることのできる範囲というものがあるのです。だから確率の問題。1から100の範囲を感じるとして、そのうち50が一番気持ちいいとします。前後5くらいはまぁまぁだけれどもあとはどちらでもないか気持ちが悪い。分母が100で気持ちいいは50のたった一つだけ。ぎりぎり前後5の範囲を考えても100分の10。気持ちいい以外が圧倒的に多いのだから、普段気持ちよくないという状態が当たり前で当りまえ。だからこそ、それを常に気持ちいい状態にしたいがために人間は努力し続けています。日常の冷暖房にしても、医療にしてもレジャーにしても。つまるところ、人間活動の殆どは、気持ちいい・都合がいいをつくりだすためのものといって過言ではないのです。感じたまま、決意も思考もなく、ただ都合よくしようと自動的に動いている時間があまりにも多いのです。
④自分は2番目だから善い行いをする
人間は環境を都合のいいようにしたいわけですが、それは必ずしも「自分にとって」というだけのものではありません。命・自分は、感じることで、感じたから生じる。感じる(接触・つながる)のが1番目で自分は2番目。で、なにかを感じた(接触・つながる)として、もし幸せなもの、楽しいもの、嬉しいものとつながれば、そこから生じる自分は幸せなものとなるでしょうね。ところが、不幸なもの、苦しいもの、悲しいものとつながれば、そこから生じる命が楽しいものであるはずがない。だからこそ人には「あなたが悲しければわたしも悲しい。でも、あなたが幸せならわたしも幸せだ」という心があるのです。これを慈悲喜捨といいます。慈悲の慈は、まぁ、大切にするくらいに捉えてください。大切だからこそ向かい合う、向かい合うからこそ気づくのです。わたしとあなたが違うということに。わたしが暑くて冷房をいれたら妻は寒がって辛そうにしていた。でも向かい合っていなければ気づくことすらありません。大切だからこそ向かい合う。そして気づけば行うことができます。なぜならあなたが辛いとわたしも辛いという悲の心があるから。で、温度を上げたら妻は暖かそうにして喜んでくれた。ああ、よかった。あなたが喜んでくれてわたしも嬉しいという喜の心も生じる。その時、涼しくなりたいという「自分の気持ちいい」を後回しにして温度を上げたわけですが、それを捨という。そもそも、自分は2番目というのがホントなのに、「自分の気持ちいい」を1番目にもってきたら、おかしなことになるに決まってますよ。自分は2番目が正しい。だから自分が1番目という欲や怒りを優先させる生き方を離れるのです。結局のところ、わたくしたちの日々の快適さ、便利さは、誰かが作ってくれたものなのです。日常的な行為、社会的な業績も含めて。
「見てよ、うちの奥さん。あの洗濯板じゃ辛いだろうなぁ、ひび割れアカギレぱっくり傷、痛そうだなぁ。何とかならんかなぁ…え?おまえのとこの奥さんも?うーん、みんな手が荒れんようにできんものかなぁ…」という会話があったかどうかはともかく、例えば、洗濯機の便利さや洗剤の成分が肌への負担を減らしていることも、誰かの幸せを願ってしてくれたことは間違いないように思えます。これを善行といいます。『舟を置き橋を渡すも布施の檀度なり治生産業固より布施に非ざること無し』というのはまさにこのことです。
⑤善行はそのままよい世界となる。ご供養はそのまま良いかかわりとなる
行いはそのまま世界となります。前回のブログ「回向」のなかでも書きました通り、行いはかかわりですから、そこにどんなかかわりが生じるのかは行い次第です。嘘をつくと、こいつ嘘ついてるなぁと思われ、次も疑われる。その人との関係はそうなる。それだけでなく、その人が「あいつ嘘ついたんだよ」と他人に話せば、自分の周囲はそういうかかわりになる。善行はその逆ですから、善行を行えば、それはそのままよい世界になる。ご供養もそうですね。あなたが幸せでありますように、苦しみませんようにと手を合わせ頭をさげて祈る。これが好きだったなぁと仏前に好物をあげて、あなたが喜んでくれたら嬉しいなという気持ちで供物を捧げる。これ、同じことを日常生活で家族や友人にしてもらったとしたなら、どうですか?
霊というものがあろうとなかろうと関係ありません。供養すること自体がそういう世界をつくるのです。霊があれば喜ぶでしょう。霊というものがなくても。例えばわたくしが死んだ後、わたくしを構成していたなにかがあるとすれば、それはまさにかかわりそのものです。そのかかわりがよいものであるということは、わたくしのかかわっている世界そのものがよいものだということです。その人にとって良い世界をつくってあげたい、だからこそよいかかわりを保とうとする。それがご供養。霊がいるとかいないとか、そんなことはどうでもよろしいのです。
自分はいつも2番目なんだということがはっきりとわかると、いろいろなことをしっかりと判断できるでしょう。現代における世の中の様々な問題のおおもとは、自分が1番目だと主張しているということです。自分が1番なので他者を認めることはありません。そして、自分を1番にするために他者から奪いとっているというのが現代の諸問題の様相です。
身近なところで。例えば、作法や挨拶というものはいってみれば共通言語のようなものです。そこに「わたしの都合」がはいりこむ余地はありません。むしろ「わたしの都合」がないからこその、作法や挨拶なのです。挨拶はしないとか便利なほうがいいとか「今は多様性だから」といろいろおっしゃる方もいて、その都度ネットなどでは論争が生じているようですが、多様性とは何をしてもいいという意味ではありません。試しにヨーロッパのレストランでナイフとフォークを左右逆に使ってみればいいですよ。周囲の他の客から呆れられるかあるいは軽蔑の目で見られるか、もしかしたら店によってはやんわりと注意をうけることがあるかもしれません。日本ではそこまでのことはないし、むしろ寛大なほうだと思いますが、いつでもどこでも自分の都合が認められるのが多様性なのではない、ということに留意すべきです。
作法も挨拶も「わたしの都合」がはいりこまないからこそ、お互いに安心して気持ちよくかかわりを生じることができるのです。誰も認めてくれないので対立している!分断した!という人たちは、多様性という言葉をダシにしているにすぎません。そういう人たちの主張は、まず間違いなく「わたしの都合」です。わたしはこうしたいのに誰も認めない、差別だ!というわけです。ですが、作法や挨拶は他者への配慮の形というだけではありません。それは社会を形成する生活の最も基本的な基盤となるものです。ですから、自分の都合のため他者の安定を奪おうとし、他人を思いやるということも全くないというのであれば、そこに分断がうまれないわけがないですね。
そういえば、過去に17歳の少女から訴えられたトランスジェンダーの方がいました。裁判にもなっていることであるし、そもそも国ごとの事情や個人の性格、あるいは環境などを全く知らないわたくしどもがどうこう判断できるようなことではありませんが、ただこの時、少女から訴えられたトランス女性が「女性の不快感は関係ない」と語った一点において、その人の間違いを指摘することができます。17歳の少女の前で性器を晒し泣かせておきながら、お前は間違っている。なぜならオレには権利があると言ったその姿勢とその言葉の意味するところは「お前の権利など知ったことか。オレには好きなようにやる権利がある」ということです。その人が批判されたのは、自分の権利云々以前に、他人の権利を奪って顧みない姿勢だからです。
自分が1番だから他者の権利は認めないとか、他者の権利を認めないどころか奪うといった思想や行動、社会運動は、仏教とは遠く隔たった、根本的に違う次元に存在しているものなのでしょう。
「諸悪莫作、衆善奉行」悪いことはしません、いいことをしましょうと仏教は説くのです。なぜでしょう。なぜ善を行うのか。それは、自分は2番目だからです。では、善行をしてそれがなんになるのか。行いはそのまま世界となるからです。何に対して善なのですか?人や物や状況に対して、そのかかわりがそのまま世界となります。その善行の第一こそが、まさに「布施」ということになります。その布施についてなのですが、甚だ遺憾ながら、また今回も長くなってしまい、「布施」までたどり着けませんでした。いやはやなんとも、我ながら困じ果てております。