「持続可能な社会」に必要なのは礼儀と作法
端的に申し上げれば、礼儀と作法というものは、人と人のつながりを良いものにする基本的なツールです。ですから、時候や冠婚葬祭における適切な挨拶や作法、食事や公共の場でのマナーがしっかりしているということは、それだけで「あなたを大切にしており、不快な思いをさせたくないのです」というメッセージになります。
わかりやすくいいいますと、命というものは、つながり、それによる経験・行動の積み上げでできあがるものですから、よいつながりがよい命を育みます。ですから、社会的な価値とか、会社や学校における行動規制とか常識などという以前のものとして、行動の規範というものは重要極まりないものなのです。
日本には「しつけ」という言葉があります。漢字で書けば、仕付け、躾。身を美しくするとは、当然すべきことでない言動について教えさとし身に仕付けるものですから、あとは本人が自分のものにしていかなければいけない。ですから、たとえば、お箸の使い方・食事の所作のきれいさというものは、失礼がないようにと自分自身で積み上げてきた、他者への思いやりの形なのです。
ところが、「そんなに大袈裟なこと?お箸をもてなくたって、美味しく食べられればそれでいいじゃない」という意見がそれなりにきこえてくるようになっています。一見、「多様性」の時代だから、自由でよさそうにも思えますね。しかし「わたしのしたいようにやる」という考え方は、社会における「多様性」のひとつとしてすら認めるべき考え方ではありません。
その考え方こそが、「多様性」を根本から否定する、社会を破壊する考え方であるということを指摘する声は今はまだあまり大きくはないようです。
はっきりしておきたいことは、「多様性」だからなんでもかんでも全て認めなくてはならないなんてことはないということです。「これは認められない」というものに「認めない」というのは当然のことです。
そもそも、「多様性」という言葉を「なんでもあり」くらいにとらえてしまっているのが大きな間違いです。しかも「なんとなく良さそう、なんだか正しそう」くらいに受け止めているので、「多様性」という言葉やその主張するところに違和感を感じても、それを指摘すると悪者になりそうな気がしてしまっているというのが実際のところだと思います。
では、「多様性」とはなんなのか?ちょっと考えてみましょう。
さて、1時間の休憩でランチに何を食べますか。いろいろな選択肢がありますね。ものすごく単純にいえば、それらの幅広い、質の違う主張グループの選択肢を、お互いに否定せずに認め合おうというのが「多様性」。「わたしはカレー」「僕はおにぎり」くらいならわかりやすい。「わたしは宗教上の理由からハラールです」「わたしは持病があるのでお弁当です」というふうに一つのグループや社会の中には、さらに様々なグループや個人がいるので、それらの違いを認めつつ尊重するというわけです。
なのに、「多様性」という言葉に最近感じる違和感というのは何なのでしょう。
それは「多様性」を主張する人が「多様性」を自ら否定しているからです。勿論、すべてがそうだというのではありませんが、そのようなケースは確かにあります。
「わたしはカレー」「僕はおにぎり」「あたし、フレンチのフルコース」「いやいや、1時間のお昼休みにフルコースはムリでしょ」
自由とは言っても、時間的・物理的に不可能ということは当然あるわけで、この場合にはやむを得ないということもありますね。
しかし、いまや「多様性」の時代。
このように否定されてきた人が「今の時代はフルコースだってありなのよ。いままで我慢してきたんだからフルコースも認めなさいね」と、このようにいうだけなら問題というほどのこともありません。ところが「僕は100円のおにぎりなのに、みんなが1000円くらいするお昼を食べるのは差別だ。だから、全員ランチはおにぎりにすべき」などとと主張し始めたとしたら、それはもう、他者の選択肢の全否定になるわけです。
個々人の個性、社会的な立ち位置や、性質の異なるグループ、それらを包括する社会にあって、お互いを尊重するという立場の我々からすれば、ただおのれの自己主張をするだけで、自分と違う他者を認めようとしないそのような主張は、まったく相容れない立場といってよいものです。
わたくしたちが、なぜ、礼儀・作法を重んじるのか。それは自分と違う他者を尊重しようとするからに他ならない。自分と違う他者を全否定する考え方は、平和で尊重すべき大切な社会を破壊するものです。
したがって、他者を複数人で取り囲む、大声で威嚇をくりかえすなど犯罪、あるいはカスハラやパワハラ、いじめなどといった行為は、その本質においてみな同様に「多様性」を否定する反社会的行為です。たとえ口に正義を唱えても、そのような行為をしている時点で、「多様性」自体が彼らを認めようとはしないのです。
実際に、対立を前提とし、対立する他者を全否定するところからうまれた主張があります。その主張というか手法を用いた人は、その全否定を「アウフヘーベン」と称しました。ただ、その「アウフヘーベン」にはどこにも論理的な必然性はなくまったく恣意的なものです。テーゼがなんであろうとアンチテーゼがなんであろうと、ただ全否定するだけですから。その主張通りに、実際に全否定した結果、スティーブン・ピンカーが『暴力の人類史』(青土社刊 幾島幸子 塩原通緒 訳)に「マルクス主義の出現は、いわば歴史的な”ツナミ”ともいうべきもので、人間社会に及ぼした影響の大きさには息を飲むしかない。マルクス主義は、旧ソ連や中国のマルクス主義政権による大虐殺を招き、間接的にはドイツのナチス政権による大虐殺の一因にもなった(P594)」と記したように、実際に全否定の大虐殺がおきてしまったというのが歴史の事実なのです。
持続可能な社会における「多様性」を認めていこうとするのならば、このような、恣意的に他者を全否定しようとする主張は認めるわけにはいかないのです。
このような主張が実は世界に蔓延しており、社会の安定を大きく乱すものとなっています。実際に、ゴッホの「ひまわり」にトマトスープをかけたり、モネの「積みわら」にマッシュポテトを投げ付けたり、自己主張のためになら他者を傷つけることすら正しいと思い込んでいる「環境保護団体」と称するものが存在しているようです。
そういう団体に属する活動家の一人が「芸術と命、どちらが大切か?」と問いを発したらしいですね。
彼らは、命を「一つの私というかたまり」「一つの私という魂」と捉えているようです。ですから、命というものが「かけがえのないもの」「尊いもの」であるならば、間違いや悪事があったとしても、だからといって命そのもののかけがえのなさ、尊さといったものが損なわれるわけではないと考えるわけです。どんな命も純粋な悪という訳ではないのだから、命そのものに価値や権利が付随すると考えている。悪事を行なおうと汚れていようと、「命」だから尊いというわけです。
このような考え方が、世の中の悪事や自分勝手な行いを蔓延させるもととなっています。
たとえば、「不良は個性」などではありません。一見、綺麗な優しい言葉のようですが、実は彼らがよい行いをする機会すら奪う、冷たい見放した言葉です。「不良」は良くない行いをするから「不良」なのであって、そもそもよい行いをすれば、もはや「不良」ではないのですから。
何をしようと、命が尊いものだから、というのは言い訳にすらなりません。
むしろ、同級生をいじめて笑っているA子ちゃんの意図や行動は汚らわしくて嫌いだけれど、でも毎朝おはようと笑いかけてくれるA子ちゃんは好き。地球環境のために一生懸命な彼は好きだけど、その主張のためなら人も社会も平気で傷つける彼は嫌い。それこそがごく自然に誰もがもつ感情でしょう。
「多様性」の時代だろうとなんだろうと、他者を傷つけて是とするような考え方を認める必要はありません。
ただの綺麗ごとにすぎない言葉に踊らされたくはありません。できるだけ他者を傷つけたくもありません。
先日、たまたま中国人の女の子がいじめられて泣いている映像を見ました。わたくしは中国にほとんど縁はありませんが、それでもその子のことが、可哀そうで、悔しくて、涙が出そうになりました。できることならすぐに助け出してあげたいとすら思ったのです。社会が多様であれなんであれ、結局は人間がそれを良くも悪くもする。だからこそ、その人間のありようを求めていかなくてはなりません。