とりあえず五蘊
「わかっているようでわかっていない」言葉についてまとめてみようと思い立ってからかなりの時間を経過いたしておりますが、そろそろ形にしておこうと思います。大体において、本を買っただけで満足しちゃって読まないままなんてことは『積ん読』という言葉が生まれるほどよくあることだし、学校で習う用語も、意味もわからないまま覚えて解答するだけで「実は中身は全然わからないのよ」なんてこともよくある話です。ですからね、まとめておきたいのですよ、はっきりと。
大前提として、仏教におけるどんな言葉も「諸行無常」「諸法無我」そして「これあるがゆえに彼有り」といった相互関係である、という基本を外れることがないという点を確認しておきます。色受想行識、十二縁起、それらはすべて働きでありかかわりであります。ですから、そこに「受」という存在があるのではなく「受」という働きがある、その働きは、かかわりによってのみ生じているということは、忘れてはいけない大前提なのです。
まずは五蘊。「色受想行識」と一口にまとめて言います。
色とは? 物質とか肉体。目に見えたり触れたりできるもの。自分の体も含むあらゆる「モノ」。これと感覚器官が接触し識がそれをしると「触」が生じます。この時点では「お湯に触れた」「氷に触れた」「砂糖をなめた」という感覚があります。眼耳鼻舌身意、色声香味触法というのがここのところ。ここで肝心なのが、次の眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識。
識とは? 識別意識。色・受・想・行の全体をまとめあげる「分かる、気付く」というはたらき。例えば舌に砂糖を乗せたら甘く感じたということをちゃんとわかっているということ。それぞれの感覚がきちんと感じられていること。です。感覚器官と対象が触れ合う時それぞれの識が生まれますが、どれも自分ではありません。識があるから感じたことがわかるのではなく、感覚器官と対象が触れ合うとその感覚が何なのかが識によってわかります。この三つは同時に働きます。つまりこの三つがあって、はじめて触が生じています。さらにまた、一つのものを一つのものと認識するためには、眼耳鼻舌身意によって感じられた感覚をまとめあげて一つにしていかないといけない。眼だけでカレーライスはわからないし舌だけでもわからないのです。その働きが想。
受とは? 感じたことを受けとること。モノや出来事に触れたとき生じる、気持ちよい(楽)・気持ち悪い(苦)・どちらでもない(不苦不楽)という三種類の感覚的反応。例えばですね、舌に砂糖を乗せたら甘く感じたので、心地よいと感じ好きだと思ったというところ。で、ここが大問題なところです。舌は私自身ではありません。砂糖も私ではない。この両者が触というかかわりをもったことで、気持ちよい(楽)が生じましたが、この気持ちよさ(楽)も私ではありません。どこにも私はないのに「(私は)心地よい」と受け止めるのです。ここで「私」という錯覚の芽が生まれているようです。かかわりによって生じた、かかわりの相互が、楽や苦といった状態を生み出したとしても、それを受け取る主体はどこにもない。このかかわりにこだわり「私」という錯覚をうみだす。これは渇愛によるものだとされます。
ちなみに渇愛とは? 渇愛には欲愛、有愛、非有愛の3種類があり、十二縁起でいう愛にあたります。十二縁起で次にくる取と密接につながっています。愛着が生じるとそこに執着が生まれます。A子ちゃんを好きになると、ずっと見ていたいし離れたくないし話したいし自分だけのものであってほしいという執着が生まれるのです。それが取。取、つまり執着には欲取(感覚への執着)、見取(自らの視点や価値観への執着)、戒禁取(戒律や儀礼への執着)、我語取(私があるという錯覚への執着)の四つがあります。受によって楽とか苦とかが生じると、かかわり自体が、その時その場所その場面でたまたま楽となったり苦となったりします。するとそのかかわり自体が、この時この場所その場面で受け取っている「私」という錯覚となり、その錯覚の「私」自身を維持しようとする。それによって「感覚を受け取り、感覚によって生じた楽や苦を受け取る自分自身」が生じます。ですから、自己は執着によって生じるといわれます。
想とは? 認識。受け取った感覚に名前やイメージを当てはめ「これは何か」と概念化する働き。これはカレーライスだとか、あれは赤いとか、これは誰それ、これは象でこれはキリンという判断がつくのは想の働きです。記憶して分類して、そしてそれによって認識しています。ここに問題があります。わたしに見えている「赤」はあなたと同じ「赤」であることは証明できません。何度もいいますが、わたくしたちは、世界そのものを感じているのではなく、感じたことを再構成してこういうものだと認識しているのであって、それそのものを認識しているわけではないからです。その働きが想です。
行とは? 意志・形成力。認識をもとに、進もうとか退こうという意図を起こし、思考や行動へと向かわせる心の動き。というといかにもですが、美味しい食べ物とわかっていたら食べたいし、食べようとするでしょうし、不味いとわかっていたら、食べようとは思わないし、そういう店にそもそも行こうともしないでしょ、ということです。問題は、善も悪もここに全部はいってくるということです。一つの出来事にたいして同じ心が生じるわけではないので、そこに「私はこうすることを選んだ」という働きが生じます。極端な例をあげれば、故安倍首相が銃撃され亡くなったとき、その死を悼み悲しんだ人もいれば、手を打って笑顔で喜んだ人もいたわけで、当然、その結果も同じものではなくなります。
ここで、順番がちょっと変だと気付きます。色受想行識じゃないの?でも、色受想行識は働きを意味する言葉なので、とりあえず、五蘊がどうというのではなく、働きを説明しやすいように並べてみたらこうなりました。
①色、つまり感覚の対象に感覚器官が「触」れること自体が、その感覚が何であるかを知る識を伴って働いている ②そのかかわりがその時その場所・場面において楽か苦か受けとり ③それが何かと認識する想 ④どう対応するか意図が動く行
五蘊は働きですから、どこにも「私」はないのですが、このはたらきの流れの中で「私」という錯覚が生じています。
「比丘たちよ、それゆえ、ここに
いかなる色も、過去・未来・現在のものであれ、内にあるものであれ、外にあるものであれ、粗大なものであれ、
微細なものであれ、劣ったものであれ、勝れたものであれ、あるいは遠のくものも、近くのものも、すべての色は、
〈これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない〉と、このように、如実に、正しい慧によってみられるべきです。
いかなる受も、過去・未来・現在のものであれ……
いかなる想も、過去・未来・現在のものであれ……
いかなる諸行も、過去・未来・現在のものであれ……
いかなる識も、過去・未来・現在のものであれ……
大蔵出版 片山一良訳 パーリ仏典第三期5 蘊篇Ⅰ P234 無我相経」
なぜ、お釈迦様は〈これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない〉とみるべきだと語ったのか?つまり、受も想も行も識も、それぞれ「受け取っている私」ととらえられてしまっているからです。上記の「無我相経」同様、「無常経」(同書P257)「苦経」(同書P260)「無我経」(同書P263)などでは、受想行識のそれぞれが無常であり、苦であり、無我であり、あるいは非我所であると説かれております。どこにも、我などというものはありません。あるのは執着、貪欲な愛着のみなのですが、それすらかかわりにおいて生じる結果にすぎません。サーリプッタはこれを食として説かれておりましたが、まだ「正見経」まで詳しくみていないので、その話はまだまだ先になるはずです。日暮れて道遠し。いまさら受想行識?と突っ込まれるのを覚悟のうえで、ちょっとまとめてみました。

