回向
願はくは此の功徳を以て 普く一切に及ぼし 我等と衆生と 皆共に仏道を成ぜんことを
普回向といいます。回向する精神がそのまますっきりとした形でまとまったものです。これ以上もこれ以下もない、そのまんま。
回向がどういうものか、詳細や煩雑な分類は一旦おいて、宇井伯壽の『佛教辞典』(大東出版社)には「己の修したる善根功徳を廻轉して、期する所に向くること(P76)」とあります。これもそのまんまの意味です。
ただ、「功徳って、他人にあげたりできるものなの?」という方も時々いらっしゃるので、じゃあ、功徳ってなあに?ということを同じ辞典でひきますと、「善を積みしてがら、修道のいさを(P202)」とあります。これを見る限り、行為の結果が功徳、という風にとらえられるので、「功徳を貯めて、他人にあげるなんてできない」となりますね。もっともです。
しかしながら、もともとのgunaにはその人の徳、知性や勇気などの特性という意味があるので、善行為にはよい結果を生じる徳がある、というほうがニュアンス的には近いと思います。また、punnaという語も功徳と訳されます。なので、ここはひとつ辞書でもひいて…と思ったのですが、そういえばモニエルもマクドネルも津波で流されたんだったなぁ(遠い目)…というわけで、かわりに船橋一哉の『業の研究』(法蔵館)から引用してみます。ここでは福徳と訳しております。
「ところが私は福德(punna)について説く經典の上に、行為の餘勢としての業の意味を見ることが出來ると思ふ。福德とは有漏なる善業のことであって、謂はば道德的善行であり、その中心をなすものは布施の行である。…(中略)…この福德がしばゝ「功徳」と漢譯されてゐることによっても想像せられるように、行爲としての福德ではなくして、福德行を行ずることによって、その人の上に何等かの好ましい影響が與へられた時、その影響をも亦福德と言うてゐるやうに見える。…(中略)…しかし福德といふ語の有するこのやうな意味は、實は從屬的なものであって、何處までも行爲としての福德の方が、その主なる意味であることを忘れてはならない。(P30~31)」
要はですね、行いの結果が功徳というのはその通りなんだけれども、行い自体がもう功徳そのものなんですよ、ということです。
実際のところ、あの人は笑顔だった。だから結果としてほっとしたなんて、因果がどうとかくだくだしいことを考える必要など殆どないのです。あの人が笑顔であったということ自体が功徳として完結しているのです。笑顔でいること自体が功徳。和顔愛語といいますでしょ。笑顔によって、愛語によって幸せになるということもありますが、それ以上に、笑顔自体・愛語自体が功徳なのだと、そうとらえていただきたいと思います。
なぜなら、行いは自分をそのようにするだけでなく、自分をとりまく世界をもつくるからです。
単純に。毎日毎日、正直に生きていれば、やがて「正直者」になります。で、何に対して正直なのかといえば、自分のまわりの、人・もの・状況・世界とのかかわりに対して正直なわけですから、そのかかわりの中で「あの人はごまかしのない、正直な人だねぇ~」という世界も同時にできあがる。その世界とは、かかわり・関係性のことですから、当然、かかわりをもつものに影響していきます。行いの結果として世界ができあがるのではなく、行いそのものが、かかわりそのものが世界となるのです。
自業自得なんて言葉があると、行いの結果は全部自分にかえってくるのだ!なんて考えがちですが、この世にたった1人で生きてるわけじゃあるまいし、相手がいる世界で、しかもその相手も主体的に行動してこちらにかかわってきているのだから、そこに、お互いに・共にという、かかわりの世界ができあがるのは当然です。その世界がいいものでありますようにと行えば、その行いはそのままよいかかわりの世界となる。あなたに向けられた笑顔の結果として、だからいまあなたは幸せなのか?でも、その笑顔をむけられている間だってずっと、その最中も幸せでしたでしょ。行為と結果を必ずしも区別する必要はないのです。当然のことながら、その人だけに向けられた行為というものはあるのです。もし、わたしのことを大切におもってくれるかかわりというものがあるとしたなら、それだけでありがたいもんです。回向というのは、そういうもんです。
貯金のように功徳を貯めるといえばそれも嘘ではないです。そもそも一回だけ正直にしてみたところでそれで正直者になったとはいえないし、そんな世界もできあがりはしないですからね。正直であることを積みかさねての正直者ですから、貯めるというのは表現としてあながち間違いではない。じゃあ、そのうちの50%をあなたに譲るとか、預金をおろすようなことができるかというと、それは無理ですね。回向はそういうもんじゃないのです。
此の功徳を以て 普く一切に及ぼし
というのは、この世界のみんなにということです。行為が世界となる。その行為とは、たとえば最初はたったひとつの笑顔でいい。たった一人の、たったひとつの笑顔ですが、それはどこにむけられているのですか?そのかかわりがあればこそ、それは次の笑顔を生み出すでしょう。自業は自得だけれども、同時に世界ともなる。正直者のまわりには正直者の世界ができあがる。嘘つきのまわりには「あいつは嘘つきだから信用ならん」という世界ができあがる。それだからこそ、わたくしどもに必要なのは善行を回向するということなのです。
その回向のもととなる善行は布施を第一とします。
それで、その布施ですが、布施については……やはり長くなりそうなので、別にあらためたいと思います。