今年も五月人形を飾っております

例年、3月3日にあわせてお雛様を飾ります。旧暦の3月3日、つまり4月14日までお雛様を飾り、翌15日には仕舞うわけです。ただ、昨年より五月人形も飾りつけておりましたので、15日にはお雛様と入れ替わりに五月人形の飾りつけをいたしました。旧暦の5月5日、旧端午の節句は6月25日でありますから、その日まではお寺の自動ドア正面に飾っております。

大凡そ端午の節句とは邪気払いであります。梅雨もございますし、じめじめと湿気のある季節ですから病気にもなりやすい。病魔という言い方もございますように、疫病を払い除ける行事でありますから、コロナ禍を鎮める願いも籠めております。

大正7,8年の頃、浅舞でも疫病が流行した時期がありましたようです。その頃の記録として、各家の玄関先に「キチサンオリマセン」と書いたお札を逆さに貼り、これを行わない家はなかったとの記載があります。更にその前後に悪性の感冒が流行ったとあり、龍泉寺で百回忌にあたる方の人数の多さからも、その悲惨であったことが窺えます。
むかしのならいとして、流行りの疫病に名前を付けるということがあり、享和年間の流行性感冒は八百屋お七の名をとって「お七風」と称したそうです。江戸中を焼き尽くす大火にも等しい災いと受け止められた感冒は、大正の浅舞にも襲いかかったわけであります。すでに大正の時代でありましても、感冒を「災いをもたらすお七」とみなし「吉三さんはここにはいないよ。だから来ないでくれ」とお札に願いを託したことでありました。
世の中がどう変わろうと、どう進歩しようと、今のところ、自然の猛威や病魔を前にして、人間の力でできることには限界があります。政治が良かろうと医学が優れていようと病院が立派で十分であろうと、誰が取り組もうがいくらお金をかけようが、どうしようもないことが、現実にはまだまだあります。自分の力ではどうしようもない。しかし他人に助けを求めたところでこれもまたどうしようもない。そういったことが確かにある。いや。むしろ、そういったことしかないと言っていいくらい。
コロナを含め、病気や命をどうこうできる人間などいやしない。それはわかっていることです。そんな人間がいないことを、病気や死に対抗できる力がないことを知ってるわけですから、たとえば政治や医療を批判しても詮なきことでありましょう。そうしたところで事態が良くなるわけではないし、むしろ空気がまずくなるだけなのですから、いっそお札でも貼って祈っていたほうがよっぽど世の中のためになります。少なくとも、誰かのために、世の中のために祈るという行為は、できもしないことを何かに求めていることに比べれば、天と地ほどひらきのある行為です。

ところで、最近とみに医療崩壊だ、医療逼迫だ、と耳にするようになりましたね。とはいえ、です。
コロナで医療が逼迫しているとは言い条、国内で感染症に使える全病床のわずか4%弱が新型コロナのために提供されただけであり、実際には、国内の医療はまだまだ健全に稼働しています。まぁ、病院にいってみればすぐにわかります。わたくしどもの身体の不具合に、今まで通りきちんと対応してくれています。
不安というものには根拠がありません。根拠がない、得体がしれないから不安なのです。しかし、事実というものは、それが事実であるということそのことをもって不安を取り去ることができます。「明日コロナに罹患するかも」という可能性に根拠はありません。しかし、今、健康であるという事実は決して否定できないのです。事実ですから。この事実があるからこそ、この事実をさらに進めて歩んでいくことができます。あちこちから大きな声が聞こえますし、それぞれ別のことを伝えるものもあります。ついついそちら側にかたむきたくなるけれども、これらの大きな声に惑わされて、不安にとらわれることのないようにしたいものです。

今年は、これまでの人形にくわえ、さらに神武天皇、大将人形、小野道風、豊太閤、舌切り雀と浦島太郎が増えました。龍泉寺での邪気払いの扶けになってくれる大切なお仲間です。

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