命から命へのかかわりかた

小欲と知足はかかわるものへの基本的な姿勢です。
では、命から命へは、どうかかわればいいのでしょうか。

命というのはかかわりの積み上げです。ですので、どのようにかかわるのかということが、命にとってとても大切なことになります。
要するに、良いかかわりの中では良いかかわりが積みあがって良い命が育まれるでしょうし、逆もまたそうなります。良いかかわりによって良い命が育まれるのだとすれば、その良い命が別の命に良いかかわりをもつことによって、またよい命が育まれる。それは「共に」ということの根本です。命はかかわりの積み上げですし、かかわりというものは相互に関係しているので、どちらか片方という訳にはいきません。必ずかかわりは両者「共に」なのです。

「共に」でないと利己的になります。命と命のかかわりに関係なく行われることとは、要するに、自己の感覚の快・不快のためにのみおこなわれることをいいます。
「一度っきりの人生だもの、好きなことして楽しく生きなきゃ!」と、ただ感覚的に快適であることのみを求めて生きているとすれば、それが利己的ということです。

人生をただ感覚の快適さを求めるためだけに行為してしまえば、自分の感覚は他人には通用しないのですから、必ず他者とのかかわりでぶつかります。自分が暑い時に皆は寒がっているかもしれないし、自分が好きなものを恋人は嫌いかもしれない。自分は辛いものを食べたいのに友人は甘いものが食べたい。そんなことはいつでもどこでも起こりうることなのに、そのかかわりを見ることすらしないとなれば、果たして、それでよい命を育むことができるのか、甚だ疑問です。

命と命のかかわりは相互ですから、お互いにお互いの命をよくするかかわりが基本となります。この命とのかかわりかたを「慈・悲・喜・捨」といいます。この4つにまとめられます。命どうしのかかわりに関していえば、この4つ以外にはありません。

一般的には「慈悲」という言葉は「いつくしみ」と大雑把にとらえられています。確かに「慈」はいつくしみという意味ですからそれはまぁいいとして、では「悲」という字は悲しみという意味なのでしょうか?というとそうではありません。

「悲」は、あなたが悲しければわたしも悲しい。あなたの悲しみをなんとかしてあげたいという気持ちです。命と命のかかわりです。目の前であなたが悲しんでいる、苦しんでいるのに、わたしが楽しいはずがない。あなたの悲しみを何とかしてあげたいと思うのは、ごく自然に湧き上がってくる感情です。これが「悲」。

「喜」は、あなたが幸せならわたしも幸せ。あなたの喜びをわたしの喜びとしたいということです。言葉でも行いでも、誰かがそれで喜んでくれたなら、わたしも嬉しくなるのです。このように自然に湧き上がってくる気持ちが「喜」。

「捨」は命へ差別をなくすということです。わたくしどもはどうしても色眼鏡でみてしまう。可愛いから優しいとは限らないし、太っているからだらしないということもないわけです。にもかかわらず、遠くからちらっとみただけで「あっちのイケメンは好きだけど隣のあいつ太ってるから嫌い」などということが罷り通っているのが現実です。これがないのが「捨」。命と命のかかわりにおいてということを意識して考えるとわかりやすくなるかもしれません。

これが命とのかかわりかたです。これ以外にはありません。
ですから、他人の命を傷つけたり奪ったりなどということは本来ありえないことです。にもかかわらずそのようなことが起こるのは、命とのかかわりに利己的なスタンスでかかわる人がいるという事実をあらわしています。

ありえないのです。目の前で泣いている、苦しんでいる、そういう人をみて面白がったり楽しんだりなんてことは。それは利己的なかかわりです。つまり自分にとって他人の涙が快であり、他人の笑顔が不快である状態。
自分でもよくわかっているはずです。一見可愛いくモテているように見えても、みんなと楽しく明るく過ごしているように見えても、相手より上に立っているように見えても、その実、命は全然よろしくないということが。なぜなら、命のかかわりにおいて良い積み上げでないものを積み上げてきたのだから。今の自分の命がよい命でないことは自分が一番わかっている。

お釈迦さまの説法、諸転法輪はまさにこのこころ、慈悲喜捨があってこそのことです。ですから、命から命へのアプローチに慈悲喜捨がないものは仏教とは言わないし、何のかかわりもないといっていいものです。

 

かつて、命のかかわりをきちんと積み上げたこともないのに、望みだけを手に入れようとしたグループがありました。
世界が滅びる、富士山が爆発するなどと主張し、それを救うのだと主張していました。しかし、彼らがほんとうに望んでいたのは、世界が救われることではありませんでした。
世界を救うであろう自分と、その自分を認め讃えるであろう、来ることのない未来への妄想。現実の世界では望むべくもないからこそ、本当に望んでいたのは世界が滅亡すること、滅亡とはいかなくとも、自分たちが評価される世界になることを望んでいたのです。
世界を救うといいつつ、彼らは世界を救おうという行いを何一つしませんでした。していたのはサリンの製造や、信者の殺害だったのですから、彼らの本当の望みがなんであったのか、実によくわかります。宗教を標榜しながら、肝心の、命と命とのかかわりを積み上げることのできない利己的な集団でしかなかったのです。

 

そこまで酷くはありませんが、本質的には変わらないと思われるものが世の中に出回っています。「異世界転生」モノというのだそうです。
最近は書店も古書店も、雑誌やコミックばかり溢れているのに立ち読みもできないので、電子サイトで漫画のさわりを読み、気に入ったものを買っております。たとえば、音楽活動モノの『SHIORI EXPERIENCE ジミなわたしとヘンなおじさん』という作品とはそうやって出会いました。いい作品ですね、これ。

で、ビックリする程あふれかえっているのですよ。異世界転生モノ。
「社畜」あるいは「ぼっち」「ニート」の主人公。いずれにせよ、開始早々、1ページかそこらで主人公は事故なり病気なりで亡くなってしまいます。死後すぐに神さまと出会い、特殊な能力をもらって人生やりなおし。ここまでせいぜい2~5ページくらい。その能力が何でもありなので、努力などせずにあらゆるものを手に入れて‥‥とまぁ、こんな感じ。

要するに、「やり直し」したい。ただしこの世界の現実ではなくて。

登場してくる「勇者」や「英雄」は嫌な人間として描かれ、それをハーレム状態の主人公が懲らしめるという展開が多いようですが、主人公の言動は、嫌な奴として描かれる「勇者」などと同様かそれ以上にパワハラ、モラハラ、セクハラに満ちています。
どのような力があったとしても、ハラスメント言動ばかりの人間を周囲が好きになるという状況は、現実にはありえません。しかしそうなります。主人公と周囲のかかわりが異常だからです。
主人公に人生の「やり直し」させることだけが目的で、それ以外の登場人物は、主人公を満足させるための道具にすぎないようにみえます。ですので、主人公と他者とのかかわりは大体においてまともにはみえません。そして主人公の行動に、命へのかかわりで褒められるべき点はほとんどありません。ある程度目的を達すると、主人公はこれまで嫌ってきた勇者などの「リア充」と同じかそれ以上のハラスメント言動をするようになるからです。つまり、今まで、それをしないという選択をしたわけではなく、ただできなかった、ということです。彼らの願望がよくわかります。

命と命のかかわりはこれをなくすことはできません。

努力、行いをしないところに結果はついてこないし、人生のやり直しは死んでからはできないし、神様が都合のいい能力をくれることもありません。

ここで留意してほしいのは、たとえば引き籠っているのが悪だから、働け、学べ、努力しろとか、あるいはいじめをする命は良くない命だからかかわってはいけないとか、そういうことを言っているのではないということです。
実際に、働けなくとも、学べなくとも、努力できなくとも、あるいは過去にいじめをしていたとしても、自分の命とかかわる命に、慈悲喜捨のこころでかかわることをつみあげていけば、よい命をつくっていくことができるのだということです。それは行いそのものではなく、行ううえでのスタンスだからです。そのスタンスこそがよい行いを生み出すもととなるものです。これを発心というのです。

自分の命は自分で積み上げていけます。だからこそ良い積み上げができるよう、ちゃんと道があるのです。道への取り組み方、歩み方があるのです。
それが慈悲喜捨です。