大悲心陀羅尼

ホームページのリニューアルのあいだ興味の赴くものにいろいろと目をむけておりましたが、そのうちの一つが大悲心陀羅尼。
陀羅尼のお経というのは、そのまま読んだなら意味などまったくわからないし、どう発音したらいいのかすらも判断がつかないという代物です。勿論お経ですから、しっかりと意味もありますし、読み方もきちんとしています。ただ、字面からはまったくわからないというだけです。そうではありますが、その本来のお経の「なまえ」をみてみますと、そのお経の性格がなんとなくみえてくることがあります。

俗に『大悲心陀羅尼』と称されるこのお経ですが、正式には『千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼』といいます。別の翻訳、例えば不空の翻訳では『大慈大悲救苦觀世音自在王菩薩廣大圓滿無礙自在青頚大悲心陀羅尼』という長い題名です。ここに『観世音』とあるので、観音様のお経だということがわかります。そして『千手千眼』や『青頚』とあるので、千手千眼観音様、または青頚観音様だということもわかります。そしてほぼ間違いなく青頚観音様です。というのも「青頚」を「ニーラカンタ」といいます。『大悲心陀羅尼』の経文中にある「那囉謹墀(のらきんじー)」というのがそれにあたるからです。
この青頚観音様はインドにおいてはシヴァという最高の神様として崇拝され、現在においてもその地位は変わっておりません。青頚とは文字通りの意味です。シヴァ神の首からうえは真っ青だからです。ただ、青頸であろうとなかろうと、すべて観音様はシヴァ神です。

その昔、インドの神々と悪魔たちが協力して、海から甘露(不老不死の薬くらいにとらえてください)をつくりだそうとします。亀王アクーパーラの背中を支点にし、その背に巨大なマンタラ山を攪拌棒として乗せ、さらに竜王ヴァースキをそれに巻き付けてぐるぐると海を攪拌したときに、竜王は猛毒を吐き出してしまいます。この毒が世界を滅ぼしてしまいそうになった時に、シヴァ神がその毒を飲み干して世界を救いました。が、猛毒の力は強く、首からうえが真っ青になってしまったので「青頚」という別名で呼ばれるようにもなったということです。古代インドの叙事詩『マハーバーラタ』にその記述があります。

以上はインドの神話ですが、いずれにしても「大いなる慈悲」によって、観音様が「廣大圓滿無礙自在」というのですから、ありとあらゆるところで自由自在な力でもって、「青頚」つまり世界の毒を飲み干すかのように「救苦」してくださるお経だということです。このことにつきましては、龍泉寺での納骨のさいに大悲心陀羅尼をお唱え申し上げますことから、その都度ご説明いたしておるところであります。

とにかく大変な功徳があるとされる『大悲心陀羅尼』ですが、興味深いのはそのご功徳。
『千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼』経の中

「佛告阿難。此觀世音菩薩所説神呪眞實不虚。若欲請此菩薩來。呪拙具羅香三七遍燒菩薩即來拙具羅香安息香也。若有猫兒所著者‥‥」

以降に『大悲心陀羅尼』を唱えるべき時と回数が説かれています。(お経そのものをご覧になりたい場合には、龍泉寺ホームページの一番下、真ん中にある大正新脩大蔵經テキストデータベースのリンクからみることができます)
それによれば、たとえば毒に侵された場合には108回ですが、サソリの毒の場合には7回。蛇に噛まれたときには21回。ちょっとばらつきがあります。いや。実はそのあたりはあまり気にならなかったわけなのですが、気になったのはここ

「若有夫婦不和状如水火者。取鴛鴦尾。於大悲心像前呪一千八遍。帶彼即終身歡喜相愛敬」

というところ。他の災いや不幸において、多くても108回のところ、ここでは実に1008回。これは確かに不幸なのかもしれませんが、災いというものなのでしょうか?「夫婦が不和であって水と火のようであるときには、鴛鴦の尾をとってきて、観音様の像の前で1008回お唱えすれば、生涯にわたってお互いに敬愛するようになる」というのです。夫婦が不和であることは(1008回)、毒に侵されることよりも(108回)手足が不随になることよりも(21回)鬼神を降伏せしむることよりも(49回)はるかに重大な不幸とみなされていたのです。
余談ですが、カースト制度のせいで「インドは差別的である」と一概に思われがちではありますが、カースト制度によって女性が守られているという一面もありました。たとえば、上位カーストの女性は下位カーストの男性に嫁ぐことは許されませんが、これは女性自身のカースト、社会的地位をおとすことのないようにと定められたものだそうです。どうしてもそのような2人が結婚したい場合には、自由恋愛によってそうすることが例外として認められていたようです。
それにしても1008回。大いなる利益があるとされる『大悲心陀羅尼』をもってしても1008回、観音様のご加護とご利益を得てすら1008回。夫婦の不和という問題は、古代から大問題であったようです。ですが、そうであるからこそ、それを乗り越えた時には不幸を消し去り幸福である状態をもたらすことができると、このように信じられたものでありましょう。

なんでこのようなところに興味をひかれたのかといえば、他のことでもない、夫婦や家族といったものは、たとえば葬儀やご供養においても基本的な単位であると考えているからです。殯屋において殯をすることができるのは家族のみです。家族というものは近しいからこそ共感できる。共感できるからこそもっとも死者の思いをすくい上げうる立場にあるのです。

いまやコミュニティーの形は変わってしまいました。わたくし自身が中学生の時には、もう既に「核家族」という言葉を学校で教えられていましたが、それでもまだ昔ながらの家族形態を多く見ることができました。
家族の誰かの知り合いはその家の子供にとっても赤の他人ではない関係性になります。近所の同級生の母親は、子供の頃の痛い思い出を共有しているコミュニティーの一員であり、だからこそ見合い話などをもちこんでくれる存在でもありました。そしてまた別のコミュニティーとの関りができあがっていく。家族の人数が減れば、その分コミュニティーの規模も小さくなるわけですから、別のコミュニティーとのかかわりをもつ機会も減っていく。

わたくしは、ご供養というものは家族を中心としたコミュニティーが支えていくものだと考えます。人の命はただ何かとつながっているのではなく、自分を中心としたありとあらゆるものにかかわっています。人の命は、思いや言葉、行いをもってかかわることで形をかえていくし、育っていきます。最初は家族、次にはご近所。もう少しすると学校の中や部活動などのかかわり。社会に出ればさらに大きないくつかのコミュニティーの一員となってゆく。そうして育ち、変わっていく命を支えてきたコミュニティーのすべてが、自分たちの中に属する命のひとつとして大切におもいを手向けてくれることは、その命にとってのすくいになりうると思うのです。ですから、その単位の基本的なものの一つである夫婦の関係を『大悲心陀羅尼』がこれほど重く扱っていることに、感銘をうけたものであります。

『大悲心陀羅尼』はとても大きなご功徳・ご利益をもたらしてくれるというお経であります。ただ漫然とお唱えしているわけにはいきません。お経にたくされた願いをすくいあげていかなくてはならない。そのようにおもいを託して手をあわせていただいているわけですから、それに応えていくことが私どものつとめであります。

ちょっときれいにまとまってしまいましたが、最初に感じたのは、今よりも大きな、今よりも多くのコミュニティー、たとえば50年前にあったような家族のかたちというものは、実は孤独死や少子化などという問題を根本から解決する力をもっているんではなかろうかということでした。

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