小欲と知足はかかわるものへの基本的な姿勢です

最近、欲とか怒りとかそんなことばかりを書いておりました。
仏教では三毒といいますが、要は人を苦しめる原因。貪瞋痴(とんじんち)といいます。欲、怒り、そしてもののありようから逸脱した愚かさ、です。これが「苦しみ」のおおもとなわけです。
「それなら欲や怒りをなくせばいいんですね!」といわれれば、まぁ、つまりそういうことになります。

前回のブログで「もし、自動的に欲がでてくるように、為すべきことを意識しないでも行えるようになるとしたなら、そこには欲も怒りもありません」と書きましたが、そんなに簡単なのかといえば勿論言うほど簡単ではありません。では、やっぱり欲も怒りもなくせないの?ということなのかといえば、そういうことでもありません。ここはひとつ、もっと素直に書いてみます。

欲も怒りも感覚から生じますが、欲・怒りがなくなるからといって感覚自体がなくなるわけではありません。お釈迦さまだって、真夏は暑いし真冬は寒いわけで、感覚がある以上、ここまではどうしようもないことです。なので、ここがお話のスタートです。
そして、前回「為すべきことを為す」というブログの中に書きました「花は何故咲くのか?」「そりゃ花は咲くもんだからだよ」というくだり、これがお話の大前提になります。

ここには謎もひねりも何もありません。そのまんまです。

人は生まれ成長し老いて死ぬ。成長しようとしたから成長するわけでもなく、老いようとしなくても老いる。花も同じです。芽が出てふくらんで花が咲き、そして枯れる。咲くようにできているから咲くだけ。

感じることは感覚の当然でありますから、これを自然と表現することにします。
しかし、感覚によって生じる心、そこから生まれる言葉や行いというものは、感じるという自然とはまったく別のことなのです。
永平寺の冬は寒い。真冬も裸足だし洗面の水も冷たい。ここまでは自然です。しかしですね、いずれ何とも思わなくなります。冷たいことは冷たいんだけれども、それが当たり前になればどうということはない。実際に永平寺で修行中、参拝の方に「真冬も裸足で大変ですね」と話しかけられたことがありましたが、ああ、そういえば裸足でしたね、というのが正直なところでした。恰好つけているわけではありません。裸足が当たり前になれば、そんなこといちいち意識しているわけないのです。当然、不満にすら思わない。それが当たり前になっているのですから。つまり、問題なのは、感覚という自然ではなく、感覚のあとにでてくる取捨選択とこころということになります。はい。これがこたえです。

ところが、この区別がついていない。寒さを感じとることと「寒い」という受け止めは全然別物にもかかわらず、です。感覚という自然とそこから生じるこころというものがごちゃごちゃになっているままなので、寒いと感じたら絶対に寒がらなければならないかの如く不満が生じることになります。花でいえば、寒くなったから枯れねば、暖かくなったので咲かねばと意図しているようなことになります。試みに「花は何故咲くのか?」という問いを大学で問いかけたとして、どんな答えがかえってくるでしょうか?
実際にわたくしの恩師がその問いを発した時にかえってきた答えは「花は生殖のために咲く」「花は虫などを呼ぶために咲く」「花は美しく見られるために咲く」など、全て「為にする」という答えでした。

このように、ものごとに変な意味を見出そうとしたり付け足したりするからおかしなことになるのです。

寒いものは寒いし暑いものは暑いのです。しょっぱいものはしょっぱいし甘いものは甘い。羽毛の上に寝れば暖かいし柔らかいでしょうが、石の上なら冷たいし堅い。そういうもんです。なので、しょっぱいのが嫌だからといって酢が甘くなるわけでもなければ、暑いのが嫌だ寒いのが嫌だと不満が生じたとしても、暑さ寒さがどうにかなるということはありません。石に「お前は冷たい」といったところで何にもなりはしません。熊に、おまえは熊だからだめなんだと言うようなものです。仮に言ってみたところで熊は熊なので熊のままどうなるもんでもありません。どうにもならんのですから、そのまま受け入れるというのが自然な態度です。知足はここからはじまります。

実は、目の前のあるがままを受け入れるということこそが、大きな一歩となります。
感覚への刺激と環境、それらとのかかわりをのぞましいものとする、それが例えば永平寺での修行だったりします。財産に余裕があって物も豊富。その目の前を綺麗なOLさんや女子学生が楽し気に雑談しながら通り過ぎ、美味しい飲食店が料理の匂いを漂わせ、遊興娯楽のお店がある。そんな環境で知足を語るのはやや虚しいかもしれません。何もないからこそ、何もないのが当たり前だからこそ知足を受け入れられるのです。

だからこその修行です。感覚の積み重ねは、たとえばそれが一回きりであったとしたなら、ただそれだけのことです。しかし、たとえば味ひとつにしてもそれが何度も何度も積み上げられれば、やがて好物となり「おふくろの味」になってゆくのです。だからこそ、どのようなかかわりをどのように積み上げていくのかが修行として問われるのです。小欲と知足、それこそが自身と環境とのかかわりの基本的な姿勢になります。

くだくだしいお話ですみません。
お酒が好きという人の目の前に酒があったらやめにくいでしょうが、そもそも酒がなければ飲みたくても飲めないし、そのうち飲まないのが当たり前になれば、飲めないことを苦痛に思うこともなくなるでしょ、と三行で譬えたほうがわかりやすいのはわかっているのですけれど‥‥

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