為すべきことを為す

今回もまたご大層な題名であることだなぁと、我ながら思わないでもないのですが、まぁ、内容に一番合っているようなので仕方ないです。「さぁ!為すべきこととはなんぞや?」と大上段に構えて真っ二つみたいな話をしたいわけではありません。「花は何故咲くのか?」「そりゃ花は咲くもんだからだよ」くらいの、もっと肩の力を抜いたものにします。肩の力ぬきついでに、変わった改行の仕方で書いてみることも試みてみます。

 

「為すべきこと」と一口にいっても、「為すべきこと」とは何なのか、実に漠然とした言葉ですね。
人によっては「私の使命は政治家になって世の中をよくすることだ」とか「わたしが生まれてきたのは、この人を幸せにするためだ」とか、それぞれ思うところもあるのかもしれませんが、使命とか人生の意味とか、生まれてきたのは何故さ?教えて僕らは誰さとか、そういうことではありません。

ごく簡潔に申し上げれば「為すべきこと」とは、正しい生活です。

まだちょっと漠然としていますでしょうか?
正しい生活とは、正しい挨拶であり、正しい作法であり、正しい食事、睡眠、排泄であり、正しい仕事のことです。わたくしども僧侶でしたら戒律であり清規であります、というといかにもですが、要は、「これが楽なんだよね」と握り箸をするのではなくきちんと使うこと。帰宅したら「ただいま」と挨拶をし手を洗い着替えをして脱いだ靴下は洗濯籠にきちんといれる。そのような行いのことです。

それが何故「為すべきこと」なのか?

人間は一瞬たりとも何かを感じないではいられません。見る、聴く、嗅ぐ、味わう、触れるなど、五感のいずれかは必ず働いているものです。そしてその感じる力によって、目や耳や鼻や舌や肌で感覚を受け取ると、その感覚を好ましい好ましくないなどと判断して取捨選択をします。
ものを食べれば、美味しい美味しくないの区別がつき、触れれば痛い気持ちいいなどの感じ方の差があるわけです。そして、感覚のいちいちを私どもはその都度意識してはいないのです。

ほぼ自動で感じて選び取っている。

毎日、ほとんどの時間、衣服を身に着け、肌でその感触を感じているのに、それを意識している瞬間はどれほどありますか?その感触をいちいち意識していますか?
服を着ていることをいちいち意識して暮らしている人なんてまずいません。意識するとすれば「あっ、引っかかった」など、常と違う感じ方をした瞬間くらいなものでしょう。そして、自動的に、つまり無意識に感じて選んでいるからこそ、人は自分にとって都合のいいものだけを選び取ろうとする。これを欲と言います。
そして自分にとって都合の悪い、気持ちの悪い感覚を嫌います。これを怒りといいます。

どちらも自分の感覚ですから、自分にしか通用しません。他人に自分の感覚に合わせろといっても無駄です。他人も、自分の感覚しか知らないのですから。欲と怒りは表裏一体です。黙っていれば、自動的に気持ちのいいものだけを求め、気持ちの悪いものを排除しようとします。つまり、ただ感覚に従っているだけです。
そしてその感覚は自分にしか通用しない自分だけのものなので、その行いは利己的です。自分に都合のいい気持ちのいいことを求める欲は、他の誰にも通用しない自分のためだけの行いです。なので、これを「百歳の日月は声色の奴婢と馳走す」といいます。

ですから、ただ感覚の奴隷となって行っているような生き方では、欲と怒りを行ったり来たりするだけですから、そのままでは苦しみを離れることがありません。欲と怒りを離れて行っていかなくてはなりません。これが小欲と知足です。「謂ゆるの道理は日日の生命を等閑にせず、私に費さざらんと行持するなり」とはこのことです。

行いがわたくしの感覚によって行われているのであれば、それはわたくしの感覚のための行いです。これを私に費やすといいます。

私に費やす時間は無駄です。なぜなら、どんな感覚もその時だけのものでしかないし、変わっていくからです。
普段、自分にとって27度の室温が一番気持ちよい。しかし同じ27度でも、健康だった昨日と風邪をひいた今日では感じ方は違うのです。勿論、快適さを求めることを否定するものではありません。健康のためにも、環境の管理は必要ということもあります。

問題なのは、意識していなければ、人生の大半をただ感覚の快適さを求めるためだけに行為してしまうということです。

ですから、道元禅師は、日々、瞬間瞬間が坐禅であると説かれました。
24時間、寝ていようと起きていようと、必ず感覚は働いている。寝ていて気付かないようでいても、暑苦しくて目をさますし、寒ければ妻(夫)の毛布を引っ張って剥いでしまう、くらいのことは身におぼえがありますでしょう。

24時間、欲と怒りが働いている。

だから、24時間、欲と怒りによる行いにならないよう「為すべきこと」を為していくのです。
ですから、戒律があり、また煩雑な戒律とは違い、生活に則した清規があるのです。

坐禅は何かのためにしているのではありません。自分の感覚に捉われた、感覚に流される思考や行いをしないことをするのです。日々の生活でも同じことです。炒め物の最中に熱いからと火を止めたら何にもなりません。やるべきことがわかっているのなら、欲や怒りに流されてあれこれ考える必要もありません。自分の欲や怒りがどうであれ、その一瞬一瞬で為すべきことをなす。それが「非思量」なのだと、わたくしは、そうとらえております。

面倒だろうが嫌だろうが、食事前には手を洗う。

そういうものだから、ただそうする。

自己の欲や怒りなど関係ない。ただ、そうするべきだから、そうする。
それだけです。別に何を考える必要もなければ、感覚がどうであれ関係ないのです。

ですから、生活イコールそのまま修行。その修行とは、欲と怒りにとらわれない行いを繰り返しただ行うということなのですから、それ自体が欲と怒りを離れております。欲をはなれ、怒りを離れているということは、つまり苦しみを離れているということですから、そのような行い自体が苦しみではなく安楽ということです。「非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。所謂坐禅は習禅には非ず、但是れ安楽の法門なり。菩提を究尽するの修証なり」

理屈がどうあれ、実際に、事実として、わたくしどもは、お互い感じることによってつながっています。
目でみて可愛いと感じ、耳できいて優しい声と感じ、近づいたらほのかに石鹸の香りがして、こちらの語り掛けに「そうなんだ~」と楽しそうにこたえてくれて、それで同級生の女子に参ってしまうのであって、見もせず聴きもせず何も感じないところに何の心が働くというのでしょう。
それを感じるから「自分」というものが出来上がっていくように感じるのです。それを感じるのも自分のこころですし、それを好ましく思うのも自分のこころです。好き嫌いは、結局、自分のこころの中のことでしかありません。わたくしがAさんを好ましく感じるからといって、わたくしの周りのすべての人が同様にAさんを好ましく思うわけではありません。それは感じてきたものの積み上げが違うからです。泣いている人をみて、可哀そう、助けてあげたいと思う気持ちを積み上げてきたのか、ざまぁみろ、いい気味だと感じる気持ちを積み上げてきたのかでは、もちろん感覚も行いも違って当たり前です。

感覚も行いも習慣ですから、それを積み上げなければできません。
積み上げるものが良ければ積みあがっていくものもよくなります。なにを積み上げるのかと言えば、感じることによるつながりです。

会社の飲み会を毎回「わたしやりたいことがあるので」とスルーしていれば、社員同士の会話に入れないことも出てくるかもしれません。会社の飲み会に出ろというのではありません。「わたしのやりたいこと」要するに自分の欲が何事にも優先するようではよい関係は築けないということです。自分のしたいことだけをして穏やかに生きていきたい。一見、静かな無欲にみえますが、自分の欲以外にはなにもしたくないというのは、これこそ強欲です。

よいつながりに「わたしのしたいこと」は必要ありません。仕事を考えればすぐわかります。「わたしのしたいこと」をしなければしないほど仕事は良いものになります。各々が「わたしのしたいこと」を「わたしのしたいように」していたら、どんな仕事も台無しになります。つながりとはそのようなことを指します。ですから「為すべきことを為す」のです。そこにわたくしの欲は必要ない。仕事はすべきことが決まっているのですから、仕事なりに行うのです。「わたしなりに」するから、仕事の求める結果に届かない。大学入試に合格したかったら、「わたしなりに頑張る」のではなく、大学なりに勉強するのです。わたしなりにとゲームをしながら休み休みやって通用しなければそれでおわり。大学が求める大学なりにやってこそ合格するのです。

もうちょっと続けます。
暗くなれば灯りをともす。このスイッチを入れるというだけの行為に、どれだけの決意を必要としていますか?おそらく大多数の人は、決意なんてせずとも、考える間もなければ思う間もなく灯りをともしているというのが実際でしょう。このように、わたくしたちの欲は、意識も決意も必要とせず働きます。それが思い通りにいかないときには怒りとなります。この怒りも自動的にでてくるので、怒ろうと決意して怒っているわけではありません。

ですから、欲と怒りが自動的に生じるのなら、自動的に生じないようにするしかないわけです。
それこそが仏としての生活です。もし、行うべきことが予めわかっているのなら、そのように寸分たがわず行うべきです。起床して顔を洗うのであれば顔を洗うということをすればよいのであって、それは欲とか怒りとは関係のないことです。水が冷たかろうが少なかろうが、顔を洗うのだから、顔を洗う。それだけです。
日々、坐禅をし、朝のお勤めをし、ご飯をいただき掃除をする。面倒、嫌だ、疲れる、寒い(暑い)。なんとでも言えるのです。ただ、そうするのが日々のあり方だから、それを行うのです。だから戒律があるのです。だから戒律を生きることは仏の生活なのです。
もし、自動的に欲がでてくるように、為すべきことを意識しないでも行えるようになるとしたなら、そこには欲も怒りもありません。為すべきことだから行っているだけ。それが自己を捨てるという修行なのだろうと思います。

坐禅とか修行とか、そういう言葉をつかいますと、よくわからないけれど大変すばらしいことという感覚をお持ちの方は結構いらっしゃると思いますし、仏教というものへの妄想はさらにもうちょっと広がっているかもしれません。
坐禅をしたらパーッと悟ってバーンと人生が開けて、みたいなことはまず期待しないほうがよいです。今日100万円投資して翌日には1億円稼ぐなどほぼ不可能なのに、なぜか坐禅だと今日坐って明日悟るみたいな話を信じちゃう方がいらっしゃる。坐禅をして悟れたとしたのなら、その人が坐禅で悟るほどそれを積みかさねてきた結果にすぎません。

そんな都合のいい簡単な話、あるはずがないのです。ひとつひとつ真摯に積み上げて行っていく。なにをするにも、それ以外に道などありません。それが修行です。永平寺や總持寺に籠るのは、そのほうが環境が整っているからにすぎません。そこでなくてはできないというものではないのです。日々是好日。日々是修行であります。