お支払いは先払いで

もともとお風呂が好きというたちではないので、いつもは烏の行水。用が済んだら長居はしないという具合なわけです。最近は楽しみができたおかげか、つい長風呂したくなるように。

ラッシュや気に入ったシャワージェルでふわふわの泡風呂に浸かってゆっくりしていると、つい時間が経ってしまいます。文字通り、よい香りに全身包まれるのでリラックス効果も期待できそうです。贅沢と言えば贅沢な気もしますが、一日当たりに換算するとせいぜい100円ちょっとなので、缶コーヒー一杯分の節約でいいわけですね。

「リラックスしてストレス解消」なんて話になればそれっぽい感じになるのでしょうが、解消しなくてはならないストレスなんてそんなにあるわけでもないのです。ストレスがないのは一般的にはよいことなのでしょうが、ないならないでちょっと寂しいものです。なぜなら、人はいつでもストレスのある状況に直面しているものだからです。
人生においては、何かを乗り越え何かを積み上げなくては前に進めないというのが普通で、何も乗り越える必要のない状況などはまずありえない。目の前の壁やハードルを越えていかなければ先へ進めないのが当たり前なわけです。試験にしても仕事にしても、何かを成し遂げよう、先へ進もうとすればストレスを抱えるのが当たり前なので、たとえば、わたくしが何かしら事業をしようと思い立ったとして、すんなりと何の問題もなく達成できる状況などは想像すらできません。必ず直面する課題をクリアし乗り越えないと完成できないわけですから、それなりのストレスが生じるのは当然のことです。そのストレスが今現在それほど大きくないのは、わたくし自身の人生にとって、実は寂しいことなのかもしれませんね。

こういったことをふと考えたのは、たまたまネット上でさまざまな意見(というか不満や文句の類)を目にしたからです。不満や文句の類と書きましたが、ただの悪口というわけでもなさそうです。勿論、ただの悪口どころか悪意を以て相手を貶めようとするものも少なくないことは事実ですが、そういったものとは違う、ある種の不満を感じるものが多いように感じます。

その不満とは、彼らの感じる正義が行われていないことから生じているように思われます。正義が行われない、というと大袈裟でしょうか?正直者がバカをみるといってもいいかもしれません。最近目にしたもので印象に残ったものは

〇悪質なクレーム。とくに理不尽なクレームがまかり通っていることへの不満。

〇交通事故。規則を無視するなどした側が罰せられないことに対する不満。

〇いじめ等での少年法や他の犯罪について。きちんと裁いていないという不満。

〇一方的な主張だけが声高に叫ばれ、それに意見すると差別とされる風潮への不満。

意識してとりあげてみますと、共通している点がみえてきて、なるほどなぁと思いました次第。
第一に、声がでかいもの言い分がまかり通ることで、社会的な不公平感が大きくなっているという意識が共通しているようだ、ということです。
クレームなんてその最たるものですね。理不尽であっても、大声で脅迫まがいの言辞を弄することで不当な利益を手に入れようとする。こういったことを嫌悪する。そればかりではなく、それを受け入れる側をも嫌悪してしまう。理不尽な主張がまかり通るような社会ならば、不満がでても仕方ないですね。
いじめのはなしになるともっとストレートです。未成年を理由にその犯罪への対応が軽く扱われるのはおかしいというのです。
先日ありました事件では、自殺した女子中学生に対し、いじめ、というよりは自慰行為を強要するなど性犯罪を犯した加害少年のC男は、当時14歳未満という理由で刑事責任を問わず、少年法に従って厳重注意を受けただけです。A子、B男、D子、E子らその他のいじめグループのメンバーは証拠不十分で厳重注意処分。人間一人を死に追いやったのに厳重注意で終了ですから、果たしてそれでいいのかという疑問がでてくるのもわかります。大人ですらしない犯罪を子供が行う。しかし子供だから罰しない。ですから世間の不満の主張するところは簡単です。「子供だろうと犯罪は犯罪として罰せよ」ということです。司法は加害者の権利を主張することに偏り被害者の命を軽んじていると、これらの人たちは感じているわけです。もちろん、未成年は社会的弱者ですから社会から守られて然る可きです。しかし、社会的弱者であることは言い訳の盾にはなりません。彼らの不満の根源は『「弱者」を盾にされる』しかもその声がでかい、ということにあるように思えます。

「弱者」や「権利」を語る主張はそれなりに理に適ったものが多く、当然行うべきことや守るべきことが含まれているのは間違いのないことです。ただ、それと同時に偏った一方的なものの見方も混じっており、これらが玉石混交に語られることで、主張自体の本来のあるべき姿や理念からかけ離れていることが攻撃を受ける原因なのだと考えられます。

もっとはっきり申し上げますと「主張自体に間違いはないのだが、それを語ろうとする人間によって偏見と妄信が混ぜ込まれてしまい、主張の正しさ自体が歪められている」のです。その結果として主張自体が拒絶されるという悪循環を生んでいるというのが現状ではないでしょうか。その意義を理解していない人がその主張自体をダメにしているのです。例えるなら子や孫を甘やかすだけ甘やかし、躾を一切していない子を他人に世話させようとするようなものです。ネットで攻撃をしている人たちをよくみると、主張の全てを否定しているわけではありません。そこはおかしい、それは無理だということに関していっているのです。ですから、この例えでいうのなら、クラスの子供たち全員を預かってくれと言われた時に、子供はもちろん受け入れるが、躾のされていない子は勘弁してくれといっているのです。それを無理にごり押ししたため「それならあなたがたのクラスは受け入れない」と全員を拒否するようになってしまったということです。

自由だろうと平等だろうと権利があろうとなかろうと、すべて受け入れることは事実上できないでしょう。
温泉地にいけば「刺青・タトゥーお断り」と書いてある。どうしても入ろうとするのなら刺青やタトゥーを除去するしかありません。なぜかといえば、それらは他人を不快に、不安にさせるからです。自由にも権利にも当然制限が伴うのですから、どこかで線引きをしなくてはなりません。ですから過剰な要求は全てを台無しにする可能性があります。ごく一部のLGBTQの人たちが主張していることは、社会を不安にさせますから受け入れられません。男性器をつけたままの「女性」が女風呂にはいるのは刺青以上に他人を不快に不安にさせるわけですから、社会がそれを容認できるかできないかではなく、そもそもすべきではないのです。実は、女性用のトイレやお風呂、女子スポーツ競技等では、生物学的な性別の女性のみが使用・参加できるという権利を守ろうという運動が、すでに英国の女性達によって始まっています。

その英国ですがLGBTQにおいては「先進国」です。自称するだけで性別を変更できます。ただし、これは過ぎたるは及ばざるの典型となってしまいました。現在はスペインやドイツなどでも、「自認」を基準とする法的性別の変更は否定されています。過剰な要求をそのままに認めた結果、英国では「女性」による性犯罪が激増しました。

LabourWomen’sDeclaration(英国労働党の女性宣言)は5月18日にTonia Antoniazzi(英国労働党の女性国会議員)のスピーチをとりあげました。その中で「すべての犯罪の被害者と加害者の性別を監視する必要がある」としました。そして、2015年から2019年までの数年で、女性の性犯罪加害者が84%も増加した。しかしこれは、「わたしは女性だ」と女性を自称する者による犯罪だ、と明らかにしたのです。その上で、警察は犯罪容疑者が自己申告する「自称している性別」を記録しているのに、なぜ彼らの生物学的な実際の身体の性別を記録しないのか?と批判しています。これについて、実際に13歳未満の子供へのレイプ未遂、13歳未満の少女への侵入による暴行、子供への性的暴行、など複数の性的犯罪で有罪判決を受けた自称「女性」たちの事例のリンクも貼り付けてあります。「彼女」たちは名目上は女性でも、事実上男性のままなのです。このような事例があるにもかかわらず、議論自体を拒否したり、べつの意見にたいして「差別主義者だ」ときめつけることは許されないことです。なぜなら、Tonia Antoniazziによれば、こういうことを言えば「差別者」扱いされるため、こういった問題を国会でも長年発言できなかったのであり、結果として犯罪者に犯罪をする機会を与えたことになってしまったからです。もはや英国の人権当局は「トランス女性が女性であることを認めなくてもよい」と言っているようです。なぜなら、英国で左派の労働党こそがトランスジェンダーについて推進してきたからです。彼女が今回発言したのは、妄信ともいえる態度、異見には「差別」ときめつける偏執的なやり方にはもううんざりということなのです。その主張のために、女性たちが傷つけられ犯罪の犠牲になったからです。

日本のネットでは「出羽守」という言い方をするようですが、「欧米では~」「先進国では~」などという言い方を揶揄したネットスラングがあります。文化や歴史的背景を考慮せずに表層的に一面だけしかみていないようだという時に、このように扱われることがあるようです。
たとえば「欧米では、夫は毎日『愛している』と奥さんに言うのに、日本の男性ときたら!」といった具合です。欧米では、女性も同様に夫に対して『愛している』と言うらしいのですが、それは無視。都合の良い一面のみを主張するので、ただ批判のための批判としか受け止められないことも多いようです。あなたが英国のことを書いたのも「出羽守」ではないかと言われそうですが、大丈夫です。日本でも「女性の人権と安全を求める緊急共同声明」が出されています。海外だけの話ではありません。
一般的な人間の心理として、自分から愛する、自分から与えることができる人が愛されやすく、求めるだけの人は愛されにくいことが心理学的に判明している事実ですから、まずは自分から始めることが何よりの近道です。自分がしていない、できていないことを他人に求める、しかも大きな声で高圧的に求めているのですから、良いものが返ってくるはずがないのです。

ですから、もう一つの共通点としましては、ネットで批判が集まるような意見は、だいたいにおいて他人に求めるもの、社会が変われ、社会が受け入れろといったような主張に多いような気がします。しかし、それが善であれ不善であれ他人を思うように動かすことはできません。なぜならば、行動が先にあって、はじめて他者とのかかわりが生じるからです。善であろうと不善であろうと、行いという先払いがないのに、行われない先に他人がお釣りを差し出すということはありません。
善行も悪行も、自分のこころから生じます。ものすごく単純に申しますと、善行のもととなるこころのはたらきを、仏教では浄心所といいます。その逆を不善心所といいます。仏教における善悪とは、そのときの心が浄心所によるか不善心所によるかで判断します。行いには正しい認識が欠かせませんので、例えば、慌てて安全確認もせずに道路を渡るというのは善ではありません。その行いの結果、もし事故が起きればその時にはじめて悪になるでしょうか?いえ、それが善心所によらず不善心所によっている時点で善ではないのです。たとえ事故にならずとも、そんな先払いは誰も望んではいません。

善という先払いがあってこそはじめて善にたいするものがかえってくるのであって、その逆はありません。現実であろうとネットであろうと、悪意のある中傷ではなく真摯な批判があるのですから、自分たちの主張が一方的なのではないか、ただ相手に変われというだけの主張ではないか、過剰な要求をしているのではないか、そもそも主張自体が間違っているのではないか、と考えることは決して無駄ではありません。

最近では男性脳、女性脳ということで、それぞれについて書かれた本があるようです。しかし、書いてあるだけのようにも思えます。
男性は察しが悪い。だから察して共感するようにとは書いてある。しかし、察する能力がないのに察しろと言われれば、つまりお前が変われと言われれば、対立してしまうだけでしょう。それに、女性同士なら何も言わずに察しあって全部回るかと言えばそうでもありません。必ず何かを伝えあっています。伝えれば伝わるのですから、まず自分が伝えようと先に行うというのが自然です。
男性は解決脳と言いますが、解決すればそれでいいのかといえばまたこれも違うのではないかと思います。妻が誤ってグラスを落として割ったときに、ただテキパキと片づけたらそれでOKというわけではないでしょう。「驚いたでしょう、大丈夫?」「あなたにケガがなくてよかった」などという言葉や行いがないことは人間として寂しいことですから、それを自分から行わない理由はありません。そもそも解決しないのではなく、解決と一口にいっても様々な方法があるでしょうし、解決するのが難しいこともあれば下手にいじらないほうがいい場合だってあります。わたくしはそういったことの専門家ではありませんが、少なくとも仏教的な善をおこなうという観点からは、まず自分が行うということが大切ですよと、いうことはできます。

行うといっても、何か具体的な行動だけをいうのではありません。理解しようと努めるような内面的なことも行いです。「私達のこと、ちょっと距離と時間をおいてもう一度考えてみたいの」という言葉をイコール別れましょうという意味に捉えることができるのは、一度でもそれを学習した人だけでしょう。幾多の失敗という試行錯誤は、いってみれば訓練のようなものです。「寄り添う」というのは簡単だけれども、実際には難しい。相手のことを、察するのが苦手だと知っているのに「察しなさいよ」と言い続けるのも、相手が解決を求めていないことを知っているのに「こうすればいい」と言い続けるのもお互いに苦痛を与えあっているだけです。だからこそ寄り添おうとすべきなのです。幸いなことに、善ですら訓練可能です。善も行動ですから、何度も行うことでできるようになっていきます。繰り返しますが、善も行動ですから、素振りのように繰り返し行うことで自然に身についていくものです。「寄り添う」ということは、まさに相手を慮って繰り返し行動しようとすること、行動そのもののことです。最初から上手にできる人はいませんでしょうが、人間は共に生きている以上、これを行なわないでいることはできません。

自らは善を行なうこともせずに、相手に変われとだけ言い続けてもムリな話ですし、いつかは「ありのままの自分」を受け入れてくれる人と出会えるだろうというのもムリな話です。相手に合わせて変わり続けることのできる人間などいるはずがないからです。同様に、自分の望むように変わってくれる人間がいないのに、自分の思うように変わってくれる世界が存在するはずがない。現実では、心に思っても面と向かって言いにくいし言わないということが多いけれども、ネット世界では、遠慮なしに批判や悪口が飛んできます。これを試行錯誤とし、お互いを慮るところにそれぞれの主張が落ち着くのなら、それこそが健全な姿でしょう。

バブルぶくぶくのお風呂で難しい顔をしていたらしく、寺族さんにそのことを指摘されたので、その時にぼんやりと考えていたことを書いてみたらこんなに長くなりました。伝えるということは難しいですね。しかも誤解を招きそうなことばかりです。上手に誤解なく、なによりも簡潔に伝えられるようになりたいものです。