イタチ和尚のおはなし

龍泉寺には、イタチが生まれ変わった和尚さんの昔話があります。『羽後浅舞町近傍見聞書』にその記載があります。

いたぢ和尚(いたぢおしょう)

いたち和尚

『秋田県曹洞宗寺伝大要』によれば、イタチ和尚を見出したのは龍泉寺15世 少流観印大和尚(宝暦5年=1755年示寂)とのことで、その後、その子が象潟蚶満寺にて修行をして大和尚になったとの記述があります。
ただその和尚さんが蚶満寺16世關山道察大和尚(明和2年=1765年示寂)だという記載には疑問が残るところです。少流觀印大和尚の遷化の年が1755年としてもその享年は不明です。それにしても、その当時、30代で住職ということはそうそうなかったことでしょうし、(「天下曹洞宗法度」によれば最低でも25年以上修行しなければ住職になるための転衣ができない)50代で遷化したとしても、その時に見つけたイタチの子は赤ん坊だったわけですから、年齢的に全くありえません。

もう一つ。なぜ突然に蚶満寺なのか?
おそらく蚶満寺15世無学絶宗大和尚(宝暦7年=1757年示寂)が僧堂をひらかれ、曹洞宗の修行道場として後学の指導養成に力を尽くされていたこと。その「羽海法窟」の名が近隣にきこえていたからではないかと思われます。
ところが、蚶満寺15世・16世とはいうものの、曹洞宗の『大系譜』によれば、關山道察大和尚と無学絶宗大和尚は華嚴曹海大和尚の同門の兄弟弟子とされております。このことからも、關山道察大和尚が浅舞から修行にいくということはちょっと考えにくいわけです。

大用慧照-華嚴曹海-關山道察・無学絶宗

ここから先は、想像です。(想像なので青字)しかし根拠のないものではありません。
少流觀印大和尚は、大変に説法が上手であり、享保前後に名僧として近隣に知られた方だそうです。それなりの学識や見識を認められていたということでしょう。つまり、弟子をお育てになるのにはまさに適任。
その方がイタチの生まれ変わりという赤子を見つけて引き取ったのも、しばらく伊勢屋に養育してもらったというのも恐らくは本当でしょう。しかしながら、昔語りでは唐突に象潟の蚶満寺に修行に行くことになります。
多分、その時には少流觀印大和尚は既に遷化されたものと考えます。
本来であればご自分の弟子としてお育てになるおつもりでありましたでしょうし、周囲も当然そうなると思っていたと思います。
既に優秀であると評判であったこの子を育てるべき人がいなくなってしまった、そうだとしたら誰がこの子を指導できるだろうか。そう考えた時、いままさに「羽海法窟」として名高い修行道場を誰もが思い浮かべたでありましょうし、無学絶宗、關山道察の名もきこえていたことでしょう。

それゆえ、蚶満寺で修行することになった。というのが事実に近いように思われます。

ではイタチ和尚はいったい誰なのか? そもそも実在するのか?
昔語りにあるイタチ和尚の生家には同様の言い伝えがあり、また巻物、イタチ和尚さんの手になるとされるお地蔵さまもあります。わたくしは、イタチ和尚の生家ともう一つ、別の家に伝わって大切にされているお地蔵様をそれぞれ拝見させていただく機会を得ました。またその際、大変古い記録に「秀泉十四世 志徹大和尚 文化十二年」という記載を見だすことができました。文化12年は1815年であり、少流觀印大和尚の遷化年から60年です。「秀泉十四世」とあるのは、おそらく現にかほ市の秀泉寺さまのことでありましょう。秀泉寺の14世は大法志徹大和尚さまです。

大法志徹大和尚の事績についてはまだ不明な点がありますが、象潟の蚶満寺にてご修行なされたということがはっきりすれば、凡そ間違いのないことと考えてよいのではないかと思います。

そもそも、本当にイタチの生まれ変わりだったのか、それについてはもう誰にもわからないことです。
しかしながら、そういった話ができて人の口にのぼること自体が稀なことです。おそらくは、人々の記憶に残るほど、そういった話が伝わるほど優れた方だったのだと思います。
とはいえ、できることなら、お腹と背中のイタチの毛は是非保存しておいてほしかったなぁなどと思うものであります。

参考:いたぢ和尚の昔話

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