長雲山 龍泉寺の公式ホームページ 開基 小野寺左京亮友光

お知らせ

お盆のお参り

龍泉寺では、例年13日にお墓参りにこられる方が多いようです。お墓でのお経を希望される方も多いので、本年も約5名が本堂前で待機しております。どうぞお気軽に声をおかけください。 また、正面入り口の駐車場が狭いため、お寺の裏手 …

地蔵講へ提灯を寄贈いたしました

毎年7月と8月に、それぞれの地域で地蔵講のご供養がございます。各地域ごとに講員の方や当番の方がお地蔵様のご供養のために力を尽くしてくださっております。 近年は地蔵講の人数も少なくなりつつあるのですが、その中で一所懸命に頑 …

中庭の切株撤去のおしらせ

お寺の中庭、法華塔前には切株が散在しており、車の切り返しにもちょっと使いづらい場所となっておりました。6月25日に切株の撤去を終了いたしましたのでお知らせいたします。

本堂に障子がはいりました

 冬の間、本堂でのご供養ではいくらストーブをたいてもなかなか温まらず、寒さが悩みの種でありました。  このたび、防寒対策として、本堂に障子をいれました。板の間の下に断熱材と合板を敷き、畳の間との段差を解消したのち、すりガ …

あたらしい駐車場のお知らせ

これまでは、お盆やお彼岸など、駐車場が狭く不便をおかけしておりましたが、新たに駐車所を設けました。 龍泉寺の本堂裏手、旧母子寮跡地を、龍泉寺の駐車場としてお使いいただけます。宿館側から出入りできますので、どうぞご利用くだ …

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いろいろとお話ししました中で

檀家さんとお会いしていろいろとお話を伺っておりますと、ちょっと簡単にはお答えしづらいことも多々あります。 仏教とは行いの宗教ですよ。行いこそがさとりの姿ですよ、という話がよくわからないというのは尤もなことですし、「諸悪莫 …

提灯掛けがたちました

7月23日、境内に提灯掛けがたちました。本年度分としてお盆のために用意した提灯は100張。4つの提灯掛けにわけて掛けることになります。奉納をご希望の方ということでお知らせいたしましたところ、現在で70張ほどご希望をいただ …

7月20日 蓮が咲きました

お寺の蓮池では今年も蓮の葉が大きくひらき、すくすくと成長しています。本日7月20日、今年最初の蓮の花が開きました。朝いちばんで開き夕方にはまた花がとじています。お盆も近いことですし、お参りの方が喜んでくださいますことを願 …

浅舞絞りとあやめまつり

季節柄、草むしりをしたり花の手入れをしたりと、なにかと庭に出て作業する時間も多くなってまいりました。それは良いのですが、どうにも虫にさされることが増えてしまい閉口してしまいます。このようなことを口にしたところ、和尚さん、 …

甘茶の桶

花まつりに欠かせない、甘茶用の桶の痛みがいよいよ激しくなってまいりました。 当寺29世養山育祐大和尚のころのものでありますから、少なくとも明治から使用しているわけです。古いものこそ大切に残していきたいものですし、これ以上 …

龍泉寺開創

 龍泉寺開創  永禄年間
(1558~1570)
 御 開 山  増田町
満福寺3世梅翁正倫大和尚
 開  基   浅舞城主 小野寺左京亮友光
(龍泉院殿即山清心大居士)

寺伝に、永禄年間(1558~1570)、浅舞城築城にあたり、浄土宗の草庵を移して菩提寺となしたと伝えられている。但し、ご開山梅翁正倫大和尚は、文亀元年(1501)年に遷化しているため、開山大和尚存命中に勧請をし、のちに堂宇を建築したものか、あるいはご開山大和尚が創建した堂宇を、築城と同時に改めて築いたものであろうか。その場合、いずれにしても、龍泉寺の創建は浅舞城築城以前のことであり、ご開山大和尚存命中のこととなるが、定かではない。同時期に同じく梅翁正倫大和尚によって創建された沼館蔵伝寺は文亀元年、または永正年間(1504~1521)の創建と伝えられている。

小野寺友光公について

小野寺友光墓所

小野寺友光墓所案内

最後の浅舞城主(小野寺左京亮友光 天正18年:1590年 9月29日没)天正18年(1590)年、太閤検地の横暴な仕方に反発して起こった仙北一揆の責めを負い、自害したともまた戦死ともきく。しかしながら、一揆は9月下旬に起きたとあるうえ、一揆収束を10月半ばとみれば(上杉景勝の感状に、10月14日「千五百余成敗、悉追払得」との記載もある。)没年月日が一揆収束以前であるため、あるいは伝聞の誤りも考えられる。

さて、友光公がいつどのような次第でなくなったのかであるが‥

下総鮭延寺縁起という資料があるらしく、その示すところでは天正18年3月に、朝舞(浅舞)にて上杉景勝の士と鮭延秀綱の従者の間に諍いがあり、朝舞の郷民が上杉に与力したとある。

小野寺氏の客将であった鮭延氏が背いたのが天正9年であるとすれば、それによって最上の侵攻を招いたものとして、鮭延氏が浅舞衆に反感を持たれたのも頷けるし、のちの関ケ原で上杉方についた小野寺氏を鮭延氏が攻める展開になったのも、あるいはこの事件が伏線になっていたのかもしれない。この事件の結末として郷民数名が責めを負うこととなったが、浅舞城主が罰せられたとの記載はないようである。

また、菅江真澄による「友光塚」の由来を記した一節によれば、天正15、6年ころ、淀君のいいつけで巡検使がめぐりきた。が、権威に傲りあまりに横暴であるため、これをきいた友光は大いに怒り、密かにこれを討とうとしたという。結果、3000ほどの軍に浅舞を囲まれ、川を下って逃れようとしたが、討手もあり、新平川の小中島という処にあがり自害したとある。友光が巡検使を討とうとしたのは天正17年、自害は天正18年のことであるという。

秀吉の奥州仕置きが天正18年7月以降であることから、菅江真澄の記述もあいまいであり決定的なものではない。しかし、のちの最上勢との戦いぶりでは、浅舞の軍勢になみなみならぬ敵愾心が感じられる。上記の何が原因であるにせよ、城主の無念を晴らすべく、というのはもちろん想像に過ぎないのではあるが。

なお、前述の菅江真澄の記述により、友光の妻は馬鞍城主関口能登守の娘、友光の娘は柳田治兵衛尉の妻とある。また別の記述で小野寺義道の子とされる。一説に小野寺光道と同一視されることもあるが、小野寺光道には、「光高道盛信士」という戒名があるため、別人と考えるのが自然であろうと思われる。また、小野寺氏の嫡流また庶流も含めて、名には「道」の字がつけられることがほとんどであるため、この点からも、義道の子だとすることに疑問が残る。あるいは、輝道の弟である光朋の系図に属することも考えられるし、浅舞の土豪が小野寺氏の一族化したか、あるいは小野寺氏が浅舞氏に入ったのか、資料の少ないことが残念である。郷土史に造詣の深い方々の教えを乞うものである。

本堂須弥壇には座像が祀られている。また、墓所は市の指定文化財となっている。

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小野寺友光の菩提寺

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提灯掛けがたちました

7月23日、境内に提灯掛けがたちました。本年度分としてお盆のために用意した提灯は100張。4つの提灯掛けにわけて掛けることになります。奉納をご希望の方ということでお知らせいたしましたところ、現在で70張ほどご希望をいただ …

7月20日 蓮が咲きました

お寺の蓮池では今年も蓮の葉が大きくひらき、すくすくと成長しています。本日7月20日、今年最初の蓮の花が開きました。朝いちばんで開き夕方にはまた花がとじています。お盆も近いことですし、お参りの方が喜んでくださいますことを願 …

浅舞絞りとあやめまつり

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甘茶の桶

花まつりに欠かせない、甘茶用の桶の痛みがいよいよ激しくなってまいりました。 当寺29世養山育祐大和尚のころのものでありますから、少なくとも明治から使用しているわけです。古いものこそ大切に残していきたいものですし、これ以上 …

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