カルト化しないでほしいもの①

統一教会の問題以降、カルト、カルトと連呼されるので、「カルトとはよくないものだ」という意識がいつの間にか社会に染みついてきているように見受けられます。「詳しくは知らないけれど、とにかく胡散臭くていかがわしい危険なもの」くらいにとらえられているようですね。
ですので、カルトとはなんぞや、という定義をはっきりさせたいのですが、これもまぁ曖昧なところで決定的なものがあるわけでもなさそうです。ただ、さまざまに定義づけられたものに共通する特徴はといえば、閉鎖的・排他的・独善的・秘密主義・教条主義的などということがあげられます。

具体的にどういうものなのか、かつてのオウム真理教を例に取り上げてみます。

まず、信者には親兄弟親類友人と縁を切らせました。また、財産をすべて共有するという建前でとりあげ自立を不可能にさせ、逃亡を封じておりました。そして実際に僻地に閉じこもり、信者たちと外の世界とのかかわりを絶ってしまったわけですから「閉鎖的」であったことは間違いありません。
そこでの「教え」とやらにおける、我々こそが選ばれたのだ、世界を救えるのだという優越感は、もちろん、閉鎖されたグループ内だけの思い込みにすぎませんでした。その思い込みこそが、彼らの入信した理由でもあるのです。自分は正しい側であり、ほかの者は間違っている。間違いに気付いてすらいない。だからこそ目覚めた選ばれた我々が救ってやるのだ、というわけです。
ところが、いざ我々が世界を救う救世主なのですよ、と社会にでていこうとすれば、信者の家族からは訴えられ、世間からは迷惑な団体と認知される。選挙に出馬すれば気持ち悪いと無視される、というのが彼らの実際の姿だったわけです。彼らのいう正しさや優越性など微塵も通用しない。
ですから、彼らがそうであると信じたがっていること、自らが優越であると思い込むためには、間違っているのは世界・社会の側であると殊更に主張しないわけにはいかない。従って排他的、攻撃的にならざるを得ない。自分以外は間違っているのだから間違いを認めさせなければならない。これこそがカルトであるオウム真理教の姿でした。

まぁ、カルトがどんなものであるにせよ、自分には関係ないや、そういう怪しげなものには近づかないようにしているし。というのが、大方の感じ方なのでしょう。
しかし、カルトというものは別に新興宗教だけではないのです。平和や環境問題などの社会的な問題を訴えるグループが実はカルトというケースもあるのです。ですから「なんとなく良さそうだ。だって平和とか環境保護とか人権保護と言っているし」というだけで、なんでもかんでもありというわけにはいかない。ホンモノがあればニセモノもあるわけで、それらを装うカルト的な団体も実際にあるということに留意しないと「いつのまにかカルトにかかわっていた」なんてことになりかねないのです。最近、特に、社会そのものの雰囲気や論調・方向性、それらのありかたがカルトな様相を呈してきているようにも見えるので、憂慮すべきことではと感じることも多いのです。

え?何ですって?今の社会がカルトの様相を呈しているとは思えませんが?という方も多いでしょうが、まぁまぁ。例えば、わたくしの記憶に残っているところでは1970年代からの「石油が尽きるから省エネ」。何年経ってもなくなる気配すらないし最近では耳にもしなくなったので、もはや都市伝説かオカルトのようですらあります。
まぁ、ここではまずおいておき、とりあえずは身近なところで「レジ袋」です。

レジ袋の問題で語られるのが「環境問題」です。特に、廃棄された海洋プラスチックが環境を汚染し、海の生態系に直接的に被害を与えるというものです。また、資源の問題もあります。「環境を守るため、限りある資源を有効に活用するため」といわれれば、それはもちろん正しいし必要なことです。
また、日本のプラスチック廃棄量は世界でも上位にあります。これを減らしていくことも大切なことに違いはありません。
しかし、「だからレジ袋有料だよ」といわれると「」です。いや。有料でもいいんですよ、べつに。
ただ、資源問題・廃棄物を減らすことって、全ての資源についていえることですよね。ひとりプラスチックだけの問題ではないし、第一「だからレジ袋有料」って、その間の論理的なつながりを説明できる人ってどこかにいますか?そもそも、それって根本的な解決になりますか?

事実として、プラスチック製品が実用化され一般化してきたのは、せいぜいが1970年代のことでしょう。原油から、重油、灯油、軽油、ガソリンなどを精製し、残ったカスのようなものは非常に処理に困る廃棄物であったわけです。ところが、この廃棄物を資源として活用することができたのがプラスチック製品です。ちなみに1886年にガソリン機関が登場するまではガソリンですら不要物として廃棄されていました。もともと使い道のないものを使えるようにしたのですから、これこそが資源の有効活用というものです。さて、そのプラスチックが廃棄されても、日本においてその殆どは通常ゴミとしてきちんと処理されます。殆どが海に辿りつくことはないのです。
もし本当に海洋汚染を減らしたいのならば、日本に辿り着く海洋廃棄物を調べたうえで、もっと具体的な対策をとるほうがいいし、ごく一部の悪質な業者や個人がしているというのならば、必罰という法の運用をすべきですし、日本の現状においては、「ゴミをきちんと捨てましょう」という道徳の範囲で解決できることも多そうです。しかし、本質的な対策はせずにレジ袋を有料にしただけです。

そういえば「割りばし」もそうでした。
もともとは、割りばしが「間伐材」を使用している資源の有効活用だということを知らない人たちが、資源の無駄遣いと言い出したことからはじまりましたね。日本では間伐材を利用して割りばしをつくっています。他国では木材が安いのでわざわざ伐採して作っているところも多いのです。ですから、割りばしに関していえば、国産の、資源を有効活用しているもののみを使用し、森林伐採ののもととなっている輸入品は使用しない・輸入しないなどすれば問題の解決に一歩近づくでしょう。そうすれば、他国も間伐材を使用することになるでしょうから。

資源活用の割りばしは無駄だ。もともと資源活用のレジ袋ももったいない。実際、使わないまま台所に溜めこんでいる家庭も少なからずあるでしょうし、そこまでなら、何とか理解できないはなしではないのです。
そうであるのなら、いらないならいらないでもう使わなければいいのだし、ないと困るというのならそのまま使い続ければいいだけのことです。ところが森林を伐採して「マイ箸」を売り、「マイバック」を作って売るとなると、方向性としては逆ではないかという疑問も生じてきます。もし、生き延びるために「間伐材の割りばし」をやめて「伐採した木からマイ箸」の製造に切り替えた企業があったとしたのなら、その比較において、どうしてこんなことになったのか最も不思議に思っていることでしょう。事実は「マイ箸」と「マイバック」こそが資源を余分に消費していることを示しているのですから。

「そういえば」といえば「コオロギ」の「昆虫食」もですね。
サルや猪ですら食べようとしない毒性の強いコンニャクイモを食べられるように毒抜きし、高致死率の毒をもつフグにすら調理法を編み出してきた日本人が、イナゴやゲンゴロウを佃煮にして食べてきた日本人が、これまでの歴史の中で口にしてこなかったのには理由があるという言い分には十分に説得力があります。コオロギの粉末に「飢餓」への対処が期待できるかと言えば、聊か疑問です。それより廃棄され続けている「おから」を捨てないで食べればいいという案の方がより実際的で安全、食料の廃棄や不足の問題にも対処できる良案にみえます。食品廃棄の問題に触れることもなく、減反政策を継続させておきながらの「食糧危機への対処に昆虫食」との主張は筋が通らないと批判されるのも無理からぬことです。
何故か、一斉に「コオロギ食」ということが推進されるようになりましたが、そのへんのコオロギを食べるのは危険なので、ちゃんと遺伝子操作され養殖されたものだそうです。まぁ、粉末になっている時点で、しかも振りかけられちゃったら区別なんてつきませんけれど。ちなみに、中国の『神農本草経』に䗪虫とあるのはゴキブリで、現に粉末が漢方として出回っているわけですが、勿論、そのへんのゴキブリを粉末にしても管理されたものとの区別などつきません。食の安全という観点からも、これを一斉に推進し始めたことが不思議でなりません。

「環境を守るため、限りある資源を有効に活用するため」と、根拠はなくても、間違っていても、環境問題・資源保護とお題目をたてにすれば、レジ袋も有料化できるし、森林を伐採してまで「マイ箸」も持たせることができる。最近では、廃棄の技術すらない太陽光パネルが森林を丸裸にしてまで設置され、それを推進した国が慢性的な電力不足に陥るほど電力を激しく消費する電気自動車を義務化しようという合意がなされるなど、根本的な解決とはまるでかけ離れたことをしているようにしかみえないのですが、にもかかわらず、自分は正しい。反対する者は間違っている。間違いに気付いてすらいないので間違いを認めさせなければならないという国際世論の方向性には、カルト同様といってもよいのではと感じさせるものがあります。事実は、まるで真逆の方向に向かっています。環境、資源を守るためというお題目とは逆に。もはや世界は十分にカルト化していると思うのですが。

いいんですよ、EV車だって、マイ箸だって、昆虫食だって。ここでは、敢えて不都合なことばかり書きたてましたが、勿論、良いことだって多く見出すことができます。ためになる、役に立つということがあればこそ実行、実施されているわけですし。「絶対ダメ、間違いだ」なんてことを言うつもりはさらさらないのです。
わたくしが危惧しているのは、多様性とは名ばかりの「これが正しい。それ以外間違いだ。だからこう決めたので従いなさい。従わない者は間違っている存在だ」という現代社会の論調であり、その行先です。