布施ということ
今夏は非常に暑いうえ雨も殆ど降らないという猛暑でありましたので、庭の花たちには常に水が足りませんでした。その中でも特に、蓮池の具合はいかがなものかと案じておりましたが、例年以上に華がひらき、実に鮮やか。質・量ともに素晴らしく、寺族さんも「今年はすごいね」と感嘆しておった次第。種もたくさん採れましたので、来年はもっと株もふやせればいいなと密かに思いおるところです。
さて、「布施」です。ようやく布施です。べつにそんな面倒というわけでもないのに、先延ばしにしてきたテーマです。そもそも慈・悲・喜・捨とか回向とか、行いとそのスタンスがはっきりしていなければ、なぜ与えることが喜びとなるのか、そもそもなんで与えるんだということがさっぱりわからんままです。わからんままだから誰も布施なんてことは考えもしない。しかし、布施こそが善行の第一なのです。いろいろ書いてきて、ようやくここに辿り着いたというところです。このままないがしろにしたままにはできませんよね。
例によって宇井伯壽の『佛教辭典』(大東出版社)をひいてみますと、布施とは
「dana檀那。また施。六度・十度・四攝・六念の一。他人に物を施すこと。布は心の普く行きわたること。施は人を恵むこと。…以下略…」(太線筆者)
とあります。書いてあるまんまの意味です。六度とは六波羅蜜の行、十度は菩薩の十行、四攝は四攝法、六念は六念処のことでありましょうが、布施という行いがなんであるか、つまり、なぜ菩薩の修行たり得る行になるのか、なぜ布施が善行になるのかという点になるとこの説明では聊か乱暴すぎの感があります。というわけで、そのあたりのことを書きたいのですが、まずは差別、さべつとしゃべつのことをちょっとだけ。
差別、さべつといえば人権、というくらいにセットで普及してきているのは、まぁ、時代的には妥当なのだと思います。で、なにが権利で何が差別、さべつなのか。はっきりと簡潔にたとえますと、例えば、私たちは大きな一つの村に住んでいる村人です。そこでは、みな等しく、朝になればふりそそぐ日の光を同様に浴びることができます。また、村の井戸の水を汲んで飲むことが出来ます。これが権利です。権利とはプラスの概念ではありません。ごくあたりまえのゼロをあたりまえに生きることができる、ということです。ですから、だれもが等しく太陽のもとでくらし、水の恩恵をうけることができます。
ところが、肌の色が違うとか男女の別とか、長幼、あるいは財産の有無などを理由として、日の光を浴びさせない、井戸の水を使わせないといったことが事実存在しています。これを差別、さべつと言います。また、私には井戸を使う権利があるのだと殊更に騒ぎ立て、自分だけ井戸を占有したり優先的に使おうとしたり、他人が使おうとするのを妨害したりし、これを批判されると「私の権利を認めない!差別、さべつだ!」と、自己の利益のために、意図的に対立をつくりだす人が大勢います。どちらも相手の権利を奪う行為をしている点では本質的に変わりはありません。現代にはこのような問題があります。
ここでちょっとお経をみてみます。
『ここに大王よ、比丘は、眼によって色を見る場合、その外相を捉えることもなく、その細相を捉えることもありません。この眼の感官を防護しないで住むならば、もろもろの悪しき不善の法が、貪欲として憂いとして、流れ込むことになります。そこでかれは、その防護につとめ、眼の感官を保護し、眼の感官を防護するに到ります。耳によって声を聞く場合、‥‥鼻によって‥舌に‥身に‥意に‥。かれは、この聖なる感官の防護をそなえ、内に、汚れのない楽を感知します。大王よ、このように比丘は、もろもろの感官の門を守っています」(パーリ仏典長部戒蘊篇Ⅰ P210 片山一良訳 大蔵出版)
感官の防護という言葉がくりかえしでてきます。物凄く難しい言葉です。この場合の「眼」や「耳」はわれわれの感覚器官としてのそれです。外相、つまり見た目。男とか女とか、太っているとか痩せているとか。二重とか一重とか。細相とは、動きとか行動とかを指すようです。で、ただ認識するだけなら、ただそれだけのことです。ところが、感官を防護しないでいると、そこに貪欲とか憂いがあらわれる。つまり、欲や怒りという、感じることによって生み出された好き嫌いがでてくる。あれは太っているからイヤ、こっちは痩せているからイイとか。感官を防護するとは、感じたことへの好き嫌いに流されないようにすること、と捉えて良いでしょう。布施に欠かせないもの、それはみな普くということです。ですから、感官の防護ということは布施行には大前提となることなのです。
ただ、感官の防護とはいっても、しょせんは感覚のはなしです。例えば永平寺では一年中裸足で過ごします。普通に考えれば、冷たい・寒いのは嫌だ、ということになりますが、それに捉われないのが感官の防護です。裸足でいるのが当たり前になれば、冷たいという感覚自体、苦にならなくなります。東司(おトイレ)の清掃も、汚いとか綺麗に捉われていたならそりゃできないけれど、感官の防護がなされるからこそ当たり前にできるようになる。間違っていけないのは、寒さが苦にならなくなるからといって、寒さ自体がなくなったわけではないし、糞尿が不潔でなくなったわけではないということです。それに対する感官の防護ができるからといって、温度自体が変わったり、糞尿自体が清潔に変化するわけでもないのです。つまり、感官を防護するとは、感じたことへの好き嫌いに流されないようにすること、と捉えて良いでしょう。
あるいは「彼はいつもハサミの刃をむけて手渡ししてくるんだよなぁ。何度言ってもダメだし、今度はこちらが渡すときに刃を向けて渡してやろう」このように考えて、その人にハサミの刃を向けて手渡ししたところ、それを見ていた人から注意を受けてしまった。彼がいつもそうしてくるからと弁明したものの「だからといって彼にだけそうしていい理由にはならない。そもそも他人がどうであれ自分が礼儀をわきまえない真似をする理由にはならない」と更に指摘を受けた。このように、自分の欲や怒りは、自分にとっては理由になるかもしれないけれど、ただそれだけです。自分には理由があるからと、いじめたり仲間はずれにしたり。でもその人の欲や怒りなんて他人にはどうでもいいし、そもそもわからないことです。他人から見れば、ただの意地悪な人であり差別、さべつする人でしかありません。感官の防護ということ、これこそが行いの肝なのです。
一口に、見える・聴こえるといったところで、そんなものは自分だけのことです。わたくしには遠くの字は見えにくいけれど、別の誰かにははっきりと見えるでしょうし、わたくしには聴こえない範囲のモスキート音が、姪にはしっかりと聴こえているわけです。要するに、自分には美人に見えるのに他人にはそうは見えないなんてことは、よくある感覚の当たり前で、敢えて言うほどのことでもないわかりきったことであるはずです。なのに、全然自覚しようともせずに、違いばかりをあれこれ言いたてているというのが、私たちの現実です。
次に、これまで、慈・悲・喜・捨ということについて、いろいろ書いてきたわけですが、そういえばいつもさらっと流していたなぁというのが、慈と捨。これについては、ブログの『「じぶん」はいつも2番目ですよ』の中で
「慈悲の慈は、まぁ、大切にするくらいに捉えてください。大切だからこそ向かい合う、向かい合うからこそ気づくのです」
と書きましたけれど、どう向かい合うのかですね。慈はいつくしみ。どんな慈しみかといえば、親が子に対して慈しむ心が慈。どんな動物でもそうですが特に人間。ちょっとでも目を離したらすぐに命がなくなりかねないのが赤ちゃん。片時も目を離せない。それこそ自分は寝ることができない、休むこともできない、それでもこの命に向かい合う、それが慈です。大切だからこそ向い合って気づいていかなくちゃならない。だから、ただ優しいとかいうことではないのです。道路に飛び出す子供をかばって突きとばすだとか、泣こうが喚こうがしっかり叱りつけ教えていくだとか、綺麗ごとだけではない覚悟も含んでの慈、なのです。
次に捨。捨てる。悲・喜で、あなたが悲しいからわたしも悲しい、あなたが幸せでわたしも幸せというこころが生じ、欲と怒りを離れておこなうことができたわけです。では、捨ではなにを捨てるのか。ブログの『命から命へのかかわりかた』でこのように書きました。
「「捨」は命へ差別をなくすということです。わたくしどもはどうしても色眼鏡でみてしまう。可愛いから優しいとは限らないし、太っているからだらしないということもないわけです。にもかかわらず、遠くからちらっとみただけで「あっちのイケメンは好きだけど隣のあいつ太ってるから嫌い」などということが罷り通っているのが現実です。行いとはかかわりです。どんな行いでも、人やモノ、状況とかかわっている。挨拶でも作法でも、アレにはするがコレにはしない、あの人にはするけれどこいつにはしない、ということが罷り通っていますが、その理由は、例外なく個人の都合にすぎません。これがないのが「捨」」
つまり、感官の防護です。仏教において差別、しゃべつへのとらわれをすてるとは「捨」の実践です。さべつではなくしゃべつです。外相、細相にとらわれないことです。だれかの悲しみ、辛さにたいして悲のこころが、だれかの喜びにたいして喜のこころが生じ、おのれの欲や怒りを捨てる、つまり、満たされていた分をあたえ、足りない分をさらにひきうけるということです。与えるからには差別、しゃべつにとらわれることがあってはならないわけで、自分の好みの外見だから与える、そうでないから与えないとか、素直だから与えるがそうでないから与えないとか、自分の子供さえよければと一人にだけ与え、他の子供たちを無視するが如きを布施とはいわないのです。自分の子だけが笑っていればいい、それ以外の子が泣いているのは優越感で嬉しいという精神で行うのなら、たとえどんなに高価なものを寄付しようが募金しようが、布施とはいいません。布施をおこなうためには、感官の防護がしっかりとできていなくてはならないわけです。
極端な図式にいたしますと、自分が欲・怒り・差別、しゃべつを捨てる=他人が恵を受ける となります。布施も行為でありかかわりでありますから、自他ともに布施の世界にいることになります。ただ、貪らず与えるという行為はそのまま布施の世界になりますが、それを差別、しゃべつなく与えるからこそ
『この布施の因縁力 とほく天上 人間までも通じ 証果の賢聖までも通ずるなり』(正法眼蔵『菩提薩埵四摂法』)
となります。布施は、慈悲喜捨なくしては行い得ないし、行いはそのまま世界なのだから、世界をよいものにしないわけがない。布施が「与える」ということは、欲と怒りを離れ、差別しゃべつを捨てることと同義です。くりかえしますが「喜捨」というのは、「あなたが喜び幸せである世界」をのぞむからこそ捨てるのであって、その捨てるということはそのまま与えるということです。(彼は暑いからと冷房を18度にしたが、彼女が寒がっているのに気づき26度にした。彼は気持ち悪くなったが彼女は気持ちよくなった。見知らぬ人であるがケガをしているので助けた。仕事には遅れ叱責されたが、ケガをした人はおかげで大事になる前に治療をうけられた。こんな例はいくらでもありますでしょ)
というわけで、なんとか布施にたどりつきました。ただ、これ以上長くしたくないのでかなりぶっとばしてしまい、乱暴な文章になってしまいました。‥‥うーん‥言い訳ですねぇ…नेति नेति


