仏教者としての向かい合い方
こう世の中が複雑になってまいりますと、いろいろな立場からいろいろな視点でということが、これまでより多くなっているような気がします。だからといって、その都度視点を変えてというのでは、自分の立場というものを軽んじすぎている感があります。第一「おっさんどう思う?」という檀家さんからの質問なども、わたくし個人の意見をもとめているのでは勿論なくて、仏教的な視点というものからみてどうなんだいときいているわけですから、わたくしども自身がそこでぶれるようなことがあっては話にならんのですね。というわけで、仏教者としてさまざまな事象や問題にどう向かい合っていくべきかということについて、ちょっと整理してみました。
まず、わたくしは仏教の教えのもとに僧侶という立場にあるわけですから、ものごとに向かいあう視点や姿勢はそこから離れることはできないわけです。ここで、その仏教的な立場というものを再確認していきたいと思います。但し、ものすごく簡単に。
諸行無常というときに、ものごとには実体というものがないのですよ、とよくいわれますね。いや、あるでしょ、という見方を完全に否定するものではありませんが、ないのです。命というのは、固定的な塊ではありません。感じることによって積み重ねられた結果、そのように見えるのです。自分以外とのかかわりこそが命を作り出します。単細胞は感じないでしょ、と思われるかもしれませんが、光なり温度なりによって変化するとすれば、確かにかかわりの中で「感じて」います。五感が整えば、さらに様々に感じることができます。
感じるということは、何かと接触しつながるということです。目は見えるものとつながり、耳は音とつながり、鼻はにおいとつながり、舌は味とつながり、肌は感触や温度とつながる。何とつながっているのか?人・物・世界・状況、自分をとりまくありとあらゆるものとつながっています。もし何一つとして感じることがなかったとしたら、そもそもわたくしどもは何一つ認識できないのだから、こころも行いも自分すら生まれない。認識も行動も「感じる」から生じます。だから「感じるちから」こそが命のもとだといえる。感じることができると、感じたものに対して「これはいい」とか「これはよくない」とかいう認識が生まれます。生き物ですからね、暑すぎても寒すぎてもダメでしょう。でも温かく涼しいのは好ましいですよね。そうすると良い・悪い・好き・嫌いの心が形をとります。このとき生じるもので
自分にとって好きなもの、都合のいいものを求めるのを「欲」
自分にとって嫌いなもの、都合の悪いものを排除しようとするのを「怒り」
と呼んでいます。
欲と怒りのはたらきにより、感じてから行動するまでの過程はほぼ全自動です。「暑いな」と感じた時点でもうその人の行動は涼しくなる方向で勝手に動いている。自分で決めているようで全然違います。扇風機にするかクーラーにするか、服を脱ぐか冷たいものを飲食するか、ただ状況にしたがって選んでいるだけで、「気持ちよくなりたい」という方向性は自動的に決まっている。これが現実。だから仏教は、「暑いからって暑がらなくちゃならないことなんてない」という道を示します。どう感じたかとどう行うかは別のことなのです。
そして、欲とか怒りとか気持ちいいとかうれしいとか、すべて心というものはただ単に状態をさしているだけのものです。今ある心の状態が「欲」だとして、次の瞬間に「喜び」という状態になったとしても、喜びという「新たなもの」が生まれたりできあがったりしたわけではなく、ただ欲の状態が喜びに変わっただけです。べつに「自分」が増えたわけではありません。逆に悲しいとか空しいとか嫌な状態になったからといって何かが減ったわけでもありません。その「喜び」が「悲しみ」になったとしても、ただ「喜び」の状態から「悲しみ」の状態に変化しただけのことです。変化という言い方がおかしいといえばおかしいです。接触したものが欲や怒りに対して多いか少ないかで自動対応しているだけとでもいいますか。例えるなら、心の色が光の加減で赤から青、青から緑と変化してみえるようなものですが、だからといってそこに「心」という実体があるわけでもない。手術で「悲しい心」を摘出できないのは、ないからです。心というのは状態のことですから、もしなにかが積みあがるとすれば、それは「経験」であり「行動」です。これらが「命」とか「自分」と呼ばれるもののもとだと、ここでは大雑把にとらえていきます。
ですからね、諸法無我、自分といわれるようなものなどは、ただ心が変化していくだけなのだからどこにも見出せない。そして、自分を取り巻くすべてとのかかわりによって自動的に変化せざるを得ない、常に状態が変わっているので諸行無常。なので、いつも都合よく思い通りにいくはずなんかない。むしろ、都合悪い、思い通りにいかないというのが当然。ない、できない。だから欲しい、したい、というのがわたくしどもの現実なのです。一切皆苦。
このように、ほぼ不可抗力のように感じられる現実。この現実に立ち向かい乗り越えていったのがお釈迦様であり、その道を受け継いだのが祖師さまがたです。わたくしはその道を信じているので、これは信念、信仰といえるでしょう。
この道は、まずは自分の感覚と行動に向かい合っていくことから始まります。感覚というのはわかりあえません。自分がケガをすれば痛いのは自分だけです。この地球で、どころか全宇宙で同じ痛みを感じるものはどこにも存在しないのです。その痛みを想像はできるかもしれませんが、同じ痛みを感じることはできない。感覚は自分以外には通用しないのです。そして、だからこそ、しょせん感覚でしかない欲と怒りは利己的で一方的なのです。問題はいつも、感じたことと行動にあるのです。まずは感じるということ、つまり人・物・状況・世界とのかかわりについて、欲や怒りとは離れたものにしていくことからスタートです。これにはいいとかよくないとか好きとか嫌いを離れたところにある行動というものが求められます。
本来、宗教的な信仰というものは、まずは自分を離れようとするものです。これは、日本人の日常的な道徳や生活習慣などにもみられるので、わたくしどもの生活の根底に溶け込んでいるともいえるかと思います。逆に、このような日常のあたり前をはなれて、他人に強制したり仰々しく脅かしたり、何かに固執したあげく「いいことがある」と欲をあおり周囲を巻き込んでまで騒ぎ立てるのを「信仰」といわれると、日本人は聊か迷惑を感じるようです。ですから、日本人の「宗教アレルギー」というものは、「信仰」と称してとらわれ熱狂する姿にひいているというのが実情でしょう。
話がそれました。
とにかく、命というものがこのようなものならば、問題となるのはかかわりと行動です。ですから、仏教で「悪いことはしません。良いことをしましょう。諸悪莫作衆善奉行」というのは当然のことです。それは「自分」をどのような形にもするし、同時に「自分」を取り巻く世界をも形作ってしまうから。もっとざっくばらんに書いていきましょうか。つまり、嘘ばっかりついていれば嘘つきになる。それだけじゃなく「あいつは嘘つきだ」と嫌われる世界も同時にできる。ただそれだけのことです。けれど正直に生きていれば正直者になるだけでなく「あの人は間違いのない人だ」と思われる世界が周囲にできあがる。これは道徳の話ではありません。自分と世界を良いものに作り上げていくことができるという道についての教えなのです。つながった先のものが良くなかったり悲しいものだったりすれば、つながっているこちらも悲しいしつらい。しかし、つながっている先のものが良かったり幸せならば、つながっているこちらも良いし幸せです。良い世界をつくることができればその良い世界からさらに良い関係を築いていくことができる。反対だと、パンを盗んだジャン・バルジャンになります。長い囚人生活を終えて社会に出た時には、知り合いは監獄で知り合った者ばかりで、彼はその関係から良いものを得ることができないだけでなく更におちこんでいきました。彼がミリエル司教という良いものと出会えたことで、初めて行いと世界を変えることができたのです。自分自身の行動がつくりあげた世界は、さらに世界の側からも自分に関わり続けるのです。良くも悪しくも。
では、良いことってなんでしょう。簡単にまとめますと、心の状態、かかわりに向かい合うスタンス、一般的には「ほとけのこころ」といわれるもの。それが「慈・悲・喜・捨」です。で、これらのこころの状態を実現させるのは「布施・愛語・利行・同事」という実践です。少なくとも、これらの「こころの状態」と「行いの実践」ができる、できたというのであれば、その人の「いのち」とのかかわりと行いによって生じた世界は安らかで穏やかなものでありましょう。
「仏教は悟りや解脱を目的とするはずだ。善を行うだけなら意味がない」などという意見も、そういえば学生時代の議論にでてきたような気もしますが、意味があるとかないとか以前に、何も行動していないのですからホンモノの机上の空論です。そもそも「欲と怒りにまみれた状態」で「慈・悲・喜・捨」の心をおこして生きることができるのかといえば、それすら実現はできないでしょう。たしかに善行為自体には悟りとか解脱という結果はついてこないでしょうが、それが為されてこそ、悟りや解脱の道に入ることができる。欲と怒りを引き摺ったままの心では、悟ったり解脱するなんてことにはつながっていきません。
仏教を学んでいきますと、緻密な心の分析と出会います。善のこころは幾つ、悪の心は幾つと並べてあると、心自体がいくつも実在しているような思い込みに落ち込んでしまう。そうして、この心はいらない、この心ならあっちのほうがいいじゃん、それにこの心も下だし悪いしとなっていく。ついには「要は阿羅漢果にはいればいいんじゃん。滅尽定に達すればいいんじゃん」と他の心や過程を軽視しがちになりますが、とんでもないことです。ファウルチップも打てない人にホームランが打てるわけありません。そしてホームランは練習をひとつもしない人に打てるようなものでもありません。
つながっているものと、きちんと向かい合っていかなくてはなりません。ただ感じたまま、欲と怒りのままに行動すればどうなるでしょう?それを端的に言葉にあらわすとこうなります。
世界は、わたしにとって都合のいいものであってほしい。あなたは、わたしにとって都合のいい人でいてほしい。
当然、仏教のスタンスとは真逆です。
ですから、わたくしが持つ視点、物事へのアプローチの仕方は、上記の仏教的な行いとかかわりを基本とするのであって、単純に利己的なスタンスで行われているものを容認はしないということになります。
仏教者として視点をいつも保っていられることが世間にある仏教者としてのありかたであって、一般的にそうだからとか、時代がそうだからとか、今はそういう価値観だからとか、そんなものに流されるのだとすれば、仏教者としてのわたくしはまだまだということになります。
そういう視点でみれば、おかしなことは多々あります。
仏教の立場からみて一見おかしくないように見えても、やはり容認できないものもあります。こちらから発信することがないにしても、せめて聞かれたことくらいには、仏教者としてきちんとこたえていきたいと願っております。