「空」とか「無」とか
「坐禅」という話になりますと、かなりの確率で話題にあがりますのがこれ。「空」とか「無」とか。ひとくちに坐禅をしましょうとはいうけれど、大体の方が、坐禅ってなぁに?何かの役にたつものなの?くらいのところからスタートするわけで、かなり漠然とした捉え方が多いのはこれはやむを得ないところです。そうこうしているうちに、「空」「無」とかいうけれど、坐禅するとそれがどういうことかもわかるの?そんな境地に達することができるの?なんて質問もでてくるわけです。
ですので、その「空」とか「無」とかについてですが、予め申し上げますと、単なる言葉の遊びのようなものではないのです。境地というよりは状態、状態というよりはそういうもん、といったほうがしっくりくる気がします。尤も、こんな言い方をしても訳が分からんだけなので、もっと具体的に書いてみることにします。
以前のブログ『「じぶん」はいつも2番目ですよ』の「②意識が生まれるのは、ひとつのものとしてちゃんと認識するから」というところで、カレーライスの例をあげました。目だけではカレーライスを捉えられないし、舌だけでもダメ。眼識や舌識など全部を「ひとつのもの」にまとめ上げなくちゃならない。と書きました。目で見ただけの視覚情報だけでカレーとは言えませんね。舌で感じた味オンリーでもカレーとはいえません。だから、わたくしたちは目や鼻や耳や舌で感じたことを自分のなかでまとめあげて、ひとつのもの(この場合はカレーライス)を作り上げているのです。
では、ひとつひとつの部品を組み立てているように、それこそひとつひとつの部品が正確に縮小されたプラモデルを組み立てているように組み立てているのかといえば、それは実はそうではないのです。よく知られている事実として、わたくしたちが純粋に「味」として舌があじわっている「味」は3割程度で、鼻で匂いを感じることで味わう「味」が7割を占めているということがあります。わたくしたちは、目や鼻が感じた情報をそのまま組み立てているのではなく、というより、組み立てたことで、実際より大きくしたり小さくしたりしたものを作り上げてしまいます。つまりですね、わたくしたちがカレーライスといっているものは、現実に実在しているカレーライスではなく、自分自身が、目や鼻や耳から入ってきた情報をもとに組み立てた、架空のものといえるのです。実物ではない、わたくしどもが集めた情報で組み立てた虚像なのです。
「えっ?でもそんなに違うもの?多少違ってもちゃんと認識できてれば問題ないのでは?」
という疑問もありそうですが、ここで問題なのは、わたくしどもは「ちゃんと実物を認識している」と思い込んでいるけれど、自分で組み立てた虚像に対してそう思っているということなのです。抑々ですね、わたくしどもが感じられる範囲なんてものすごく狭い、限定的なものでしかないという事実を忘れちゃいけない。
たとえば目。人間の見ることのできる波長の範囲は、だいたい380nmから780nmです。この範囲の外の電波もX線もわたくしたちは見ることができない。耳だって、人間に聴くことのできる音の周波数範囲は20Hzから20,000Hzで、超音波も超低周波もわたくしどもには聴こえないし、温度だって、下限は絶対零度から高温には理論上上限はないけれど、ではその範囲をすべて感じられるかと言えば、気温が-50度にもなるか、あるいは気温が50度を超えるくらいになると、わたくしどもはもう死んでしまいます。
観測できている、理論上わかっている、そんなことはどうでもいいのです。わたくしどもに感じることができていないということは、わたくしどもにとって存在していないことと同じなのです。もしかしたら、熱々のカレーライスはできたての0.1秒間だけ超超音波を発しているかもしれない。でも、そんなこと、認識できていなければないのと同じ。わたくしどもは世界のほんの一部しか認識していないのに、まるで全部をしっかり認識できているかのようにふるまっています。わたくしどもの認識している世界とは、わたくしどもが感じられる範囲のものでしかありません。
つまり、わたくしどもが認識している世界は、わたくしどもが認識できる範囲の情報、これらををあつめて組み立てあげた虚像です。実物じゃないのです。だから「空」というありようなのです。
それから、「わたし」とは何か、「世界」とは何か、ということについて。
『十力経』にこうあります。
このように色があります。このように色の生起があります。このように色の消滅があります。
このように受があります。このように受の生起があります。このように受の消滅があります。
このように想があります。このように想の生起があります。このように想の消滅があります。
このように諸行があります。このように諸行の生起があります。このように諸行の消滅があります。
このように識があります。このように識の生起があります。このように識の消滅があります。
このように、これがあれば、かれがあります。これが生じれば、かれが生じます。これがなければ、かれがありません。これが滅すれば、かれが滅します。
すなわち
無明を縁として諸行が生じます。
諸行を縁として識が生じます。
識を縁として名色が生じます。
名色を縁として六処が生じます。
六処を縁として触が生じます。
無明を縁として諸行が生じます。
触を縁として受が生じます。
受を縁として愛が生じます。
愛を縁として取が生じます。
取を縁として有が生じます。
有を縁として生が生じます。
生を縁として老死、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生じます。
このように、この全体の苦の集まりの生起があります。
(大蔵出版『パーリ仏典第三期3 相応部因縁篇1P 151~152 片山一良訳』)
いわゆる十二縁起、此縁性という言葉でひとくくりにされているところです。十二因縁ともいいます。これらのすべては、関係性、もしくは関係を生み出すもの(こと)です。十二縁起ほとんどすべてが、かかわりという実体のないものであって、そのかかわりこそが存在の正体なのです。言葉を変えてみても同じになります。わたくしどもの存在を成立させている身・口・意、あらゆる思い、あらゆる言葉、あらゆる行為は、すべて何かしらのもの(こと)にかかわることによって生じ、そして生じた思い・言葉・行為は必ず何かしらと関わっているのです。つまり「わたし」という存在はかかわりそのものと言えます。
かかわりによって生じているというより、かかわりそのものが「わたし」ですからね。わたくしどもが「わたし」と思っている身体と心という範囲が「わたし」なのではない。私子さんは大好きなA君には思わず声がうわずっちゃうけれど、隣の席のB君は嫌いだから挨拶もしない。グループの友達とは話すけれども、クラスカーストの違うクラスメイトとは口もきかない。そういう関係性全てまでも含めての自分であり「わたし」。かかわりの中心として認識しているのが身体であり心であるだけで、「わたし」の正体とは、かかわりすべて。これを絵に描いてみたら、身体を中心として、そこからのかかわりがあらゆる方向にのびている、ウニのようなものになるでしょう。かかわりが実体であるはずないのですが、ではないのかといえばちゃんとある。
では、「世界」とはなにか?「世界」とは「わたし」とかかわるすべてのこと(もの)です。
じゃあ、「わたし」と何が違うのか?いや、だってかかわりがすべて一方的なんてことはないわけで。いつも好意を感じる話し方をされるA君は私子さんのことを憎からず思っているし、反対にいつも無視されるB君は、同じように私子さんを無視しているし、グループの友達は話しかけてくるけれども、クラスカーストの違う子たちは「私子ちゃん?知らない子だし」と話しかけようともしない。
こちらからかかわることができるように、あちらからもかかわることができるわけで、当然、かかわり方が変われば関係も変わる。つまり世界が変わる。例えば、好意をもっていたA君と晴れて恋人関係になれたのはいいけれど、グループの友達にやっぱりA君を好きだった子がいて、グループとの関係がちょっとぎくしゃくするようになった、とか。
行為はそのままかかわりであり、かかわりはそのまま「世界」となる。「世界」とは「わたし」とのかかわりすべてをいう。だから、「わたし」と「あなた」の「世界」は違う。B君にはB君を大切にしてくれる世界というものがちゃんとあるわけで、それは私子さんの世界とはまったく別物です。もし、私子さんがB君とも仲良くなりたいと願うのなら、そのようなかかわりをつくるしかない。そのような行いだけが、望むかかわりをつくりだすのですから。
行為はそのままかかわりであり、かかわりはそのまま「世界」となります。ですから「わたし」を大切にしてくれる「世界」にいる「わたし」は「世界」とのかかわりを大切にする行いをすればよい。だけれども、「世界」をないがしろにする行為をすれば、「世界」とのかかわりもよいものではなくなる。目にはみえないし、実体もない。だけれどもかかわりこそが「世界」そのもの。だから「空」というのです。
ひとつ。
こちらからだけからが、かかわりの全てではありません。当然、他者から悪意のある行為をされることだってあるわけです。で、その悪意すらかかわりにすぎないのですから、かかわりを変えることで「わたし」と「あなた」の世界を変えることはできるということになります。例えば、私子さんとぎくしゃくしていたグループの子が私子さんを無視したりいじめだしたりとか。正常な世界であれば、一方的な悪意をもったかかわりをたつことができるでしょう。話し合い、それでダメならクラス全体や担任、あるいは親権者などの力を借りるなど。ただし、これらのかかわりがいつも望むようなものであるかといえばそうではありません。もし、ひとつのかかわりを変えることができないのであれば、別のかかわりを変えることもできるでしょう。だからこそ孟母三遷ということもあるのです。
そして、大乗仏教が積極的に世間にかかわろうとするのは、まさにこの点において世界とのかかわりを健全なものにしたいからです。良い世界とは、わかりやすく言えば、みんなが幸せな世界。あなたが幸せならばわたくしも嬉しいとみんながおもえる社会。
わたくしが社会問題をちょっと口にする理由もそう。そりゃ、自分のかかわっている世界には、良い世界であってほしいですもの。誰かが一方的に自分の好き勝手をする世界、それが正常だとは思えませんし。
まぁ、実際にはよくない考え方やごまかした言い分が蔓延しているようです。今の世界の問題は、奪うことがあたりまえだという異常な考え方や行為が実際にあり、しかも善意を装って名前を変えているものが多くなっていること。
くどくなると嫌なのでひとつだけ。多様性について書いておきます。
多様性とはいくつもの主張なり意見なりが、ともに尊重されるからこそ成立します。お互いに相手を認めるからこそ多様性なのであって、一方が他方を排除しようとしたり、自分たちの意見のみを尊重し押し通そうとしたらそこにもはや多様性はなく、対立があるだけです。多様性を口にする人の中には、「我々を受け入れないのは多様性を否定するものだ!」と自己主張する人も多いですが、じゃあこちらを認めるのかといえばそんなことはない。並び立つということがない。己のみ。それは自ら多様性を否定して対立しているだけのものです。なぜそんなことをするのかといえば、相手から奪い、自己の利益のみを求めるからこそです。ですから、そのような人たちがごまかしていう「多様性という言葉」に惑わされることなく、しっかりと自分と世界をよいものにしていきたいものです。

