前向きに坐禅
年末になって、來春に坐禅・占いなどの集まりをしようという話がでてきましたので、急遽、坐禅について書いてみます。
「只管打坐、只管打坐」と曹洞禅ではいいますね。だけど、ただひたすらに坐るとは言うものの、そのひたすらってどういうことさ?そもそも坐禅ってなんなのさ?というところからはじめてみたいということですので、そのあたりについて整理しようと思う次第。まずは、やや長くなりますがお経をみてみます。
比丘たちよ、比丘は念をそなえ、正知をそなえて、住むべきです。これが、そなたたちに対する、われわれの教誡です。
それでは、比丘たちよ、比丘はどのように念をそなえるのでしょうか。比丘たちよ、
ここに、比丘は
⑴身において、身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。
⑵もろもろの受において、受を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。
⑶心において、心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。
⑷もろもろの法において、法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。
このように、比丘たちよ、比丘は念をそなえるのです。(片山一良訳『パーリ仏典 相応部大篇1』p567 念経)
突然、「念」という言葉がでてきました。今までテーマにしたことはないのですが、小欲・知足、欲と怒りときたら、つぎは念・不妄念ということになります。わたくしのブログにおいて、現時点では「念」は「意識」ととらえていただければよいと思います。欲や怒りの話の中では、例えば、お釈迦さまだって寒いものは寒いし暑いものは暑い。だけど、そう感じることと、それをどう受け取ってどう行うかは別のものだということについて繰り返し述べてきたわけです。だから、次はどうやってその「寒さや暑さ、感覚に流されない心を保つのか」というお話。
端的に申し上げれば、感覚という自動機械に流されないようにしようという意識は、すぐに妄念によってどこかへいってしまうのです。せっかく自動的な欲や怒りを離れようと意識しているのに、そんな意識は気が付けばどこかへ消え去っている。どんなに集中していても、妄念は生まれます。日常のどんなときであろうとも。たとえば大切な陶器や漆器を丁寧に手入れしているとします。最初は細心の注意を払っているでしょうが、そのうち、気が付けば全然別のことを考えていたり、いつのまにか作業が終わっていたりする。まして坐禅では。何をかいわんや。
ひたすらに坐るっていいますけどね、大体においてひたすらではないのです。その状態をいえば、妄念・妄想がでてきている状態。形としては坐禅しているけれど心は妄念に捉われている。道元禅師は「ひたすらに」と説かれたけれど、形だけ坐禅というのでは、全然ひたすらじゃないですね。だからこそ、「坐禅中にいろいろな雑念がでてくるんですけど‥‥」ということを問われるわけですが、雑念がでてくるのは感覚の当然なのです。じゃあ、だから雑念だらけでいいのかというと、そんなことはありません。だからこそ、このお経を示したのです。
予め書いておきますが、道元禅師は『普勸坐禅儀』のなかで「心意識の運轉を停め、念想觀の測量を止めて、作佛を圖ること莫れ」とお説きになられております。ですからね、坐禅をするときには坐禅をしているという意識以外は必要ではないのです。ただ坐禅している状態をつづけていくのです。
最初に「身において」とあります。身体を意識しなさいと言っているのです。足は今、ちゃんと組めているな、手はちゃんと印を組めているな、と常に自覚していきます。どちらかといえば、客観的に観察している感じ。ちょっと気を抜くと、気が付けば印は崩れています。親指は離れているし、足もちゃんと組めていなくてくるぶしが当たって痛くなってきている、なんてざらです。で、いま自分は坐禅をしているのだから、手や足を組みなおし、常に坐禅の状態にしていくのです。
受において、というのは受想行識の受。感じること自体は「触」。では「受」はというと、どう感じたかということ。-10℃のものと肌が触れ合いましたというのが触ならば、「冷たい」と受け取るのが受。これも身と同じようにする。「靜室宜しく飯食節あり」。好きな音楽が流れていたり満腹や空腹でなどという、感覚が直に訴えかけてくるような状態が望ましくないのは当たり前です。それでも、どんなに感覚を抑えたとしても、足や尻が痛くなったりはするもんです。ただ、痛いからと言って痛がらなくちゃならないなんてことは勿論ない。基本的に、坐禅を組んだはじめの状態で「痛い」ということはないので、途中で崩れた結果痛いというのが大半だと思います。だから、そうならないように崩れないように、身と受において念をそなえる。
心も同じ。まだ出家する前のことですが、永平寺の参禅体験をしたことがあります。7~8人の方と一緒に一泊二日。坐禅自体の回数は多くはありません。それでも感想をききますとね、「坐っているのが長かった」「坐禅はもういい」という声も勿論ありました。坐っていようが立っていようが、何かを感じれば心も生じる。「まだかよ~長いよ~」と不満の心が怒りに変わったり、「もう飽きた」と不貞腐れた心が生じたりもするでしょう。だからそれを客観的に観察していく。その心に流されてしまわないように。「あぁ、足が痛いのに終わらないから、自分は腹をたてているんだな」と。少なくとも、自分の身にしろ、受にしろ、心にしろ、今の坐禅している状態と向かい合うことで、妄念の生じる間を与えないことを意識していけばいいくらいに、今はとらえておきます。
要はですね、「欲って、怒りってこういうものなんだ!わかったぞ。じゃあ良い生き方をしていこう!」とよい心が生まれたとしても、いつも妄念が勝手にでてきて、気が付けば妄念だらけでした、というのではよい生き方なんて難しいに決まってます。だから、妄念を起こさない、念・不妄念なんですよ、ということです。
坐禅は習禅ではないのです。いつも自身の状態を意識して、妄念が生じない・妄念に流されない状態であることをいうのです。よく「自分自身と向かい合う」といいますけれどね、放っておけば妄念だらけの自分と向かい合う意味なんてあんまりないんじゃないかしら。向かい合うのは自分自身ではなくて自分の状態。まずは自分の状態と向かい合い、あるべき状態、なすべきことをし続けること。
それに、道元禅師は日常のすべてが坐禅であるという風に説かれました。今度は、先ほどのお経(念経)の続きを見ていきます。
それではまた、比丘たちよ、比丘はどのように正知をそなえるのでしょうか。
比丘たちよ、ここに、比丘は、
⑴進むにも、退くにも、正知をもって行動します。
⑵真直ぐ見るにも、あちこち見るにも、正知をもって行動します。
⑶曲げるにも、伸ばすにも、正知をもって行動します。
⑷大衣と鉢と衣を保つにも、正知をもって行動します。
⑸食べるにも、飲むにも、噛むにも、嘗めるにも、正知をもって行動します。
⑹大便・小便をするにも、正知をもって行動します。
⑺行くにも、立つにも、坐るにも、眠るにも、目覚めるにも、語るにも、黙するにも、正知をもって行動します。
このように、比丘たちよ、比丘は正知をそなえるのです。
比丘たちよ、比丘は念をそなえ、正知をそなえて、住むべきです。これが、そなたたちに対する、われわれの教誡です。(片山一良訳『パーリ仏典 相応部大篇1』p568 念経)
日常生活こそ、妄念の塊です。何をしていても妄念は生まれるのですから、何をしていても念を失うわけにはいきません。だからこそ、道元禅師は、食事するのなら食事だけをする、洗面するなら洗面のみをする。東司にいくのなら、東司でするべきこと以外はしない、と一つ一つの行うべきことに、妄念のないひたすらさを求めたのです。
このように、もし念・不妄念ということを意識して妄念の生じることが僅かでも減るのならば、その分、わたくしどもの、やるべきこと・為すべきことが妨げられないようになるわけです。為すべきことが妨げられないのであれば、行いにおいてやるべきこと・為すべきことが達成できるようになる道理です。試験勉強の前に突然部屋の整理がしたくなる。普段片付けるのが嫌で散らかっているのに、いざ勉強する段になると勉強する時間がなくなるくらい整理整頓してしまう。こんなふうに、大体において我々の日常の目標やタスクなんてものは、いつも妄念が生じて邪魔されているのです。今回は坐禅のはなしなので大念処経のほうがよかったかもしれませんが、まずはこのへんで。
はじめに、占いのイベントをしたい、同時に坐禅もしたいのでお寺でどうですかとすすめてくださった方は、「今年一年がよいものになるよう、そういう心で生きられるよう、年の初めに明るい目標がたてられてそれに希望がもてるよう」な会にしたいという意図で、この会をひらきたいと思ったのだそうです。
とても前向きなことで新春にふさわしいことだと思います。現在、詳細を詰めているところでありますので、細かいことが分かり次第、改めてお知らせしたいと思います。


