一切皆苦と「貪・瞋・痴」

しばらく夏風邪でした。
だるくて動けない、鼻が詰まって喉がかれて声がかすれる。なにより思うようにお経をあげることができない、とんでもないところでとんでもない声が出る。自分のことながら本当に情けないものです。

だから一切皆苦。
というわけではないのですが‥‥

あらゆるもの(こと)は全部苦しみですよ、と、こう言えばずいぶんどぎつい言い方だなと思うのです。「一切皆苦」の「苦」は肉体的な痛い辛いも含むでしょうが、「苦」は、パーリ語でドゥッカ (dukkha)といい、空虚、不安定の意味を持つ言葉だそうです。むなしく満たされていない状態。

この満たされていない・思い通りにいかない苦しみは「貪・瞋・痴」などの煩悩によって生じるのですから、一切皆苦をものすごく単純に「あらゆるもの(こと)が思い通りにいかない」と言い換えてみましょう。生老病死や四苦八苦などということはいわず、煩雑にならないよう簡単に。

オギャアと生まれた時、わたくしたちは何も持っていないし何もできない。自分一人では生きていくことができないのですから、ゼロどころかマイナスですらあります。青虫ですら卵から孵ってすぐにモコモコ這いまわって葉っぱをモグモグするというのに。
わたくしたちの前にある現実は「ない」「できない」です。
生きていくこととはつまり
「ない」を「ある」に変え、
「できない」を「できる」に変え、
「マイナス」を「プラス」に、
たちはだかる「NO」を「YES」に変えていくことにほかなりません。

いつも、次も、その先も。とにかく一つ乗り越えた先にまつのは「ない」「できない」。また乗り越えても待っているのは「ない」「できない」という現実。
もともとが「ない」「できない」のですから、何一つとしてすんなりと順調にいくはずがないです。人生が思い通りにいかないのは当たり前なので、人生に精進が必要なのも当たり前のことです。
けれども、乗り越えていくこと自体は苦しみではないですよ。「ある」「できる」にしていくんですから。たとえば、スポーツで「できる」ようになることの喜び。そのための練習自体が楽しくてしようがないということだってあるのです。乗り越えて自分の幸せを作り出すことができるのなら、それを苦しみとは感じないでしょう。

でも、それが苦しみとなることもあります。それが「貪・瞋・痴」の痴。

たとえば、もともとわたくしたちは「空を飛ぶ」なんて「できない」ですね。
それなのに、空を飛ぼうなんて悲しい話をいつまで考えているのさ。それは無理。無理なのに願うんだから、そりゃ悲しいでしょう。
ですから「空を飛ぼう」などと思わなければそもそも「飛びたいのに飛べない」という苦しみがでるはずもないのです。
不老、不死なんてその最たるものです。
花が日当たりのよい場所を選んで自ら歩いて移動したりしないように、ものにはもののありようというものがあって、その自己のありようを離れた思いは「貪瞋痴」の「痴」です。
(この「もののありよう」ということはとても大切です。仏教ではこの世界はこうである、この物というものはこうであるというしっかりとした認識をもっています。だからこそ物や事への執着をはなれ、自己による貪り、瞋りがもののありようを離れたところから生じているということを実に緻密に説いています。)
さて、なんにせよ、わたくしたちは生きて現実を乗り越えていかなくてはならないわけですから、どうやってそれを乗り越えるかですが

言葉を慎み、意をよく護り  身により不善を行なわず
この三業道をよく浄め    仙人の説く道を成ぜよ(法句281)
         引用『ダンマパダ 全詩解説』片山一良 大蔵出版

この場合の三業道は「身口意」と考えていいと思うのでその前提で話をすすめますと
要は、わたくしたちが人生においてできることは3つある、いや、3つしかない。それは「おもうこと」「はなすこと」「おこなうこと」だというのです。だから、人生をよいものにするならば、この3つをよいものとしましょうということです。
それでは、何をもって「良い」とするのか、その基準のひとつが「貪・瞋・痴」だと考えてください。
「貪・瞋・痴」というこころははじめからそこにあるわけではなく、何かのきっかけで不意にでてくるのですから、こんなものはいりません。こんなものが出てきた時点で不幸の出来上がり。
「バカ野郎」と思った時点で楽しくもなければ幸福でもないのは当たり前で、おもいや言葉、行いが「貪・瞋・痴」という「自己を中心に考えるこころ」によって生じるかぎり、それはよいものにならないのです。

ちょっと長いですね。いや、だいぶ長い。
夏風邪でだるいなぁなどと考えながら書いていると、いつもよりとりとめがなくて気づくとこんな有様です。
実は夏の坐禅会で子供たちにお話をしなくてはならないのですが、子供たちにもわかってもらえるようにがんばってまとめなくてはいけません。
「良い」とはなにか、なにが必要なのかといえば
相手を大切に思う慈悲のこころ。それが形になったとき、挨拶・作法・行儀・所作進退、丁寧な言葉遣いと相手に気遣いのある所作。
だからそういったことが伝わるよう、小学生にも呑み込めるよう要点をまとめてつくりなおしです。

何より、はやく夏風邪も治るよう養生しないと。
(6月12日に下書きしていたものです。坐禅会は7月26・27日におこなわれました。そして本日。やっぱり夏風邪状態です)

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