さて。
そもそもわたくしは学者ではありません。ですので、字句についてや細かなことを話すようなことは実はたいそう難しい。
とはいえ、きかれれば答えないわけにもいかず、わからないで済ますわけにもいかず、とにかく、日々の研鑽は欠かせないものとだけはかろうじて認識できている程度。それでもやっぱりいろんなお話しがやってまいります。

最近と言わず、時々耳にいたしますのが
「仏教は『悟り』を求めてるんだよね?なんで善だの幸せだのっていうの?幸せを求めているわけじゃないよね?」
という趣旨の言葉。

えぇ、そうですよ。幸せは結果であって、目的というものじゃないですよ。ただ、貪・瞋・痴をはなれた行いのあるところを幸せという状態だというだけです。
たとえば、怒りもなく、自分勝手な欲にとらわれることもなく、物事に執着することもなく慈悲深い。そんな人と共にいることができたとしたら、さらに自分自身がその人と同じように生きることができたとしたら、結果として「幸せ」という状態にあるといえるのはないでしょうか。
これは目的ではありません。そもそも自分自身の欲を離れ行うということは、行為の結果に期待しないということです。行為の結果が幸せであるということすら求めずにはなれているからです。

だから、「悟り」のまえに「幸せ」があるのはむしろ当然。貪・瞋・痴にとらわれ慈悲のこころもなく無慙であることは、悟りとは真逆であるのですから、悟りのまえに貪・瞋・痴をはなれ幸せといえる状態にあることは必然です。

で、これはいいのです。
つまり、われわれの凡夫としての日常と幸せのあいだ、或いは凡夫と悟りのあいだの幸せ。これについては、まぁ、いいのです。

 

問題なのは悟りのほう。
「四諦八正道」と一口にいいますが、いくら何でも大雑把というか、省きすぎではないでしょうか。

一般的には
四諦とは苦諦・集諦・滅諦・道諦という4つの真実、われわれの苦しみが生まれるところからこの苦しみを滅し安らかな悟りの境地にいたるまでのすべてをいい、
八正道とは、その苦しみを捨て去る、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定という8つの方法をいいます。

つまり原因と解決策です。
一見、そこに何の問題が?というふうですが、じつは解決策にいたるまでの間が、或いは解決策そのものがすっぽり抜けてしまっているのです。

これこそが問題なのです。
いきなり「正見(ただしいものの見方)」といわれて、なにが正しい見方なのかわかりますか?
でも、正見からスタートするのです。だからそれがわからなければ、それ以外のすべて、正しい考え方も、正しい言葉も、正しい行いも、正しい生活も、正しい精進も何もかもありえない。
何が正しいのかすらわからないのに、正しくしなさい正しく生きなさいとどんなに言われてもそれは無理です。

四諦八正道のあいだには、四念処、四正勤、四神足、五根、五力、七覚支といった階梯があり、この最初の四念処でまず正見を確立していくわけですから、ただ単に八正道です、正しいものの見方をしなさいではちょっと乱暴だろうなと思うのです。

ではなにが正しい見方なのかと言えば、諸行無常であり諸法無我であり縁起法である、というのがそれでしょう。

あらゆるものはうつりゆく(諸行無常)
これはいいでしょう。でも
あらゆるものには自分や個といった実体はない(諸法無我)
というと、もうわからなくなります。頭ではわかってもわからないのです。事実、あるとしかみえないしそのようにしか感じられないからです。

しかし、仏教では、物質も力だといいます。力というかエネルギーというか、何かそんなもの。
地水火風の四大色などといいますが、本当に土や水の組み合わせと考えているのではなく、水にたとえられる力、火にたとえられるような力というふうに考えます。で、土は堅さや重さをつくりだすエネルギー水は引き付けあい繋げるエネルギー風は引き離すエネルギー火は熱さや変化させるエネルギー。エネルギーですから実体などなく、力のさまざまな組み合わせが我々の知っている物質だというのです。※1

ですからエネルギーの組み合わせでしかないもの、例えばこの身体も、そして「もの」を認識してそれを受け取り感じることも、その結果生じる感情やこころといったものも、すべては諸法無我。だからこれら(身、受、心、法)にとらわれること自体が煩悩なのです。

自分というものがうつろいゆくもの、たまたまこの力が集まってできている組み合わせにすぎず、その集合すら絶えず転変していると知り、そのように自己への執着をはなれて、はじめて正見が生じます。そしてこの正見を得る第一段階の修行が四念処です。

ただ、諸行無常、諸法無我、縁起法などということから正見が生じたとしたならば、それはイコール悟りといってもよいようなものです。ですから八正道は仏のあゆむ道そのものともいえましょう。
というより、言ってみれば、順番的には仏になってから歩むべきところですよ、この順番は。四念処、四正勤、四神足、五根、五力、七覚支によって、8つのことがそれぞれ確立されたあとのこと。つまり、仏というものはこのように歩むものですという、もう到達したあとの話。
でも、だからこそ。悟りをえるのならば悟りの道を歩むのは当然すぎるほど当然のことなのではないでしょうか。(「無明に覆われている無知者には八邪道が生じ、明に到達した知恵者には八正道が生じる」相応部※2

とはいえ。
このようなことを檀家さんに説こうというわけではありません。むしろ亡くなった方に積極的にかたりかけるほうがよいのではないでしょうか。仏教には、煩悩をはなれ、苦しみをはなれ、安らかな境地へと達する道があり、その道は実にシステマティックに整えられています。亡くなった方へのご供養は、よいご縁を紡いでゆくものでもありますから、もしも伝える知識がよいものであるならば、その知識はその方へのよいご縁となっていくでしょう。

その知識をよいものにしたいと願っています。正見のないところに八正道なんてありえないわけですから、少なくともそこだけはしっかりとしておきたいのです。

 

※1『ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ第1巻 物質の分析』 スマナサーラ,アルボムッレ著 参照
※2「原始仏教に於ける八正道 と涅槃の問題『涅槃からの道』としての八正道の考察」 服部弘瑞 参照