3.11
3.11は東日本大震災のあった日であり、わたくし(龍泉寺住職)は石巻市でその日を迎えたのでした。
その当時から亡くなった方を見るというお話はいくつもあり、わたくし自身もまたそういうお話に遭遇したこともあります。
心霊現象の多くは、不可解なもの・怖いものというふうに、通常はそのように受け止められているようです。
でも、ほんとうに不可解で怖いだけのものなのでしょうか?
わたくしたちは笑顔の人をみればうれしいものだと思い、泣いている人をみれば悲しんでいると思うというのが一般的な受け止め方です。しかし心霊現象ではそうではないのです。仮に「幽霊」に会ってみたとしたらどうでしょう?彼らの笑顔は不気味な笑いになり、泣き顔は恨みや怨念と受け止めるのではないでしょうか?
本当は人に会えてうれしいのかもしれない、本当は言えなかったことを伝えたいだけかもしれない。なのに、それがわたくしたちの受け止め方なのだとしたら、彼らをそのようにしか受け止められないとしたなら?恐らくそれが、よくわからない心霊現象というものに対するわたくし共の一般的な心理をあらわしているのだと思います。
被災地での彼らへの受け入れかたは(もちろん全てではありません)それとは違いました。それはおそらく、彼らの無念と苦しみへの、肌でしる深い共感と同情、あるいは生き延びることのできたわたくしたちが抱えるいたみがそうさせているのだろうと感じます。
例えば、わたくし自身は泳ぎの達者であると自負していましたし、だからこそ救助のためにみずから水に入っていったものですが、それでも手足を水にとられる感覚、腕の力も足の力も全くかなわない濁流の力、あの水の冷たさも感覚も、ひとりの人間のもつ力の小ささという現実のなかでは、まったく無力を痛感せざるをえなかった。わたくしの場合は、流されたとしてもあの場所に引っかかるだろうと想定して慎重に移動したというだけのことで、もし泳ぐ力もなく、まったく不意にそのような現実にまきこまれたのだとしたなら、その苦しみや無念さはいかばかりのものであったことでしょう。
それを知っている、あるいは目の前で流された人の絶望や希望をみてきた複数の人にとって、頻発する心霊現象は恐ろしいものではなく、彼らのいたみを共感するものとなるのは必然であろうとわたくしにはそう思えます。そしておそらく、そのような心霊現象を、むしろ望んでいるのだとも思うのです。それがわたくしどものかかえるいたみであり、そのいたみをわたくしたちは愛しているのだとすらいえると考えます。
ここ数か月、わたくし自身の思索のむかうところは、主に「懺悔」と「いたみ」でありました。震災後の心霊現象に向かい合うその姿から、わたくしの中で、なんとなく言葉ができあがってきたような、そんな気がいたしているところです。