よい環境はよいおこないで

毎日のように雪が降り、いい加減外に出るのも億劫だという割には、外に遊びに来ている野鳥の姿を見るのが楽しみで、頻繁に外に出ては足跡を確認したりしております。

それにしても、上野公園や塩釜神社で出会った鳩たちは、逃げもせずむしろ人についてくるくらいの距離感なのに、わたくしと毎日会っているはずの鳥たちとの距離はなかなか埋まらないのです。まぁ、これは仕方ない。毎日エサなりご飯なりがあって、しかも襲われることもないと知っていればこそでしょうから。
浅舞近辺に住まいして日々命にかかわる危険があるのかといえばそうではなく、それよりは、人間に害意がないということを知らないせいでしょう。それでも、少しは警戒心が薄れてきたようです。玄関の外で檀家さんを見送っておりましたら、すぐ後ろでキジがぼんやりとこちらを見ていたり、ガラス戸越しに遊んでいたりと、少しづつではありますが変わってきてはいるのです。

彼らは自分の周囲の物や他の生物とのかかわりのなかで行動を選び取っているわけですから、彼らとの距離が近くなってきたということは、彼らにとって、わたくしどもが悪いものではないと認識されてきているということだと思います。いつか上野公園のように人を恐れないで懐くようになるまでには、お互いを害さないという信用を積み重ねていくしかありません。

環境を選び取るということは、人間にとっても勿論とても大切なことです。どのくらい大切かといえば、我々の人生は自分の命のための環境を如何に作り出すかに殆ど費やされているといっても過言でないくらい大切。
命はつくられるものだし、環境、つまり物や人とのかかわりの中で変わっていくものなのですから、よい関係を選び取る、よい関係を作り出すことが自分の命をよいものにしていくわけです。
以前に書いたこともあります「孟母三遷」はまさにそのことです。あるいは「君子危うきに近寄らず」という言葉もあります。危うきとは、なにも危険な場所のみをさすわけではありません。そもそも危うきものとの関係をもとうとしないことですから、例えば覚せい剤などが好例でしょう。あんなものとの関りは、買おうと売ろうと使おうと自分自身を傷つけるだけのものですから、そもそも近づく必要すらないのです。
ところが、覚せい剤のほうからこちらを選び取るということがあるとしたらこれは厄介です。環境をつくりだしていくものは結局はわたくしどもの行いの積み重ねです。もし悪ノリの冗談で「覚せい剤やってみたいなぁ」などということを何度も口にしていたら、それを契機として誰かが覚せい剤とのかかわりを持ち込むということもあり得るのではないでしょうか。
こちらが物や人との関りを選び取ることができるように、相手側もこちらを選択することができるわけです。シンデレラが王子様との将来を夢見ても、シンデレラがマナーも作法も口の利き方も知らず品位がなかったとしたら、果たして王子はシンデレラを選び取るのか?ということです。彼女が優しく品があり且つ王宮で王子と踊って恥ずかしくないだけのマナーと作法があったればのことでしょう。賭け事を嫌う人が賭け事をする人と一緒に賭け事をして遊ぶことはまずないでしょうし、作法のきちんとした人は、作法どころか箸すらまともに持とうとしない人と食事をすることは恐らくないでしょう。これらの行いひとつひとつ、形の上では同じ世界のことでありますが、気持ちの上ではもう別の世界のことなのです。バーナード・ショーは「単に形の上の奈落なら、橋もかけられましょうさ。(略)だが、嫌厭という奈落は、とても越えられずに‥」と書いています※1。わたくしどもが日々きちんとした節度ある行動を毎日積み重ねているということは、実は自分の環境と命を、一つの行為ごとにただしく積み上げ作り上げているということなのです。

この行為の積み重ねこそが「自分」というものになります。
例えば漫画「ドラえもん」のスネ夫君。彼が「剛田君、いじめはやめなさい」と強い口調で諫めつつ、いじめをやめようとしない剛田君を押さえつける。力で負けて捻じ伏せられても「剛田君、君は間違っている!僕はいじめを否定する」と屈しない姿をみせたとします。どうでしょう?のび太君やしずかちゃんなどは「実にスネ夫君らしい!」と感じることができると思いますか?もしスネ夫君が皆にそう思ってほしいのなら、それだけの行いを積み上げていかないかぎりそのような自分をつくりだすことはできないわけです。彼が積み上げてきた行いとそれによってつくられた環境のなかでは、彼はその真逆の存在なのですから。
ですから「自分らしい表現」などというものはどこにもないし、しょせん言葉の上だけのことです。自分らしさは行いの積み重ねで生じます。どんな服や化粧でも自分を別のものにはできないのです。自分を別のものにするのは、ただ自分の行いの積み重ねだけです。ですから、もしスネ夫君が「正義のスネ夫」を積み重ねていけば、それがスネ夫の自分らしさになるのです。

だから、それらしいフレーズに流されて自分を見誤らないようにしないといけませんね。それっぽいフレーズといえば「自分探し」というのが流行りました。最近では1980年代後半から1990年代。当然、自分をつくりだしてきた行いのうえにあるもの以外のなにかなんてありませんから、探すのなら自分の行いの積み重ねのなかにしかないわけです。インドにもどこにもあるはずがない。
ただ、そういうフレーズがでてくる前段階として1980年代の「個性尊重」ということがあったとわたくしは思っております。もともとの教育的な理念とはまったく別の文脈で、個性という言葉・フレーズが独り歩きしておりました。結果、全員が同じ格好をしている「個性的なファッション」が生まれ、いわゆる「不良」も「個性」という言葉に押し込められて、一見「個人が」尊重されたかのようではあるけれど、要するに「個性だから」と放置されたようにしかみえませんでした。乱暴な行い、荒々しい言葉遣い、犯罪ギリギリの行為か犯罪。このような人との関係をあえて選び取る人はいないのに、彼らは「それも個性」と認められたがゆえに、よい関係を築く機会を遅らせてしまったのではないか?そのような疑問すらでてきます。いや、疑問ではなく事実そうでした。授業や朝礼をサボっていなくなった彼らを教師が叱りつけるのです。彼らのいない教室や朝礼で。残っている人間に「なんでお前らはいなくなるんだ!」と叱りつけていたわけですが、いない人間に何一つ伝わるわけがない。その教師は、自分で言っていて虚しくなかったのか。興味のあるところです。

現実にわたくしどもも、いくつかのフレーズのなかでそれにとらわれていることがあります。「差別」という言葉は強烈です。むしろこの言葉自体に怯えてしまう人がいてもおかしくないくらいに強い。それは、かつて「不良も個性」として、一見、個人を認めるかのようにしたことで彼ら自身に自分を選び取る機会を与えず教えることもしなかったように、一見正しく見えるから、なんでもかんでもに使われてしまうからかもしれません。

どのような価値観を選び取り、どのような判断を正しいものとして選び取るか、まさにこれこそが個性なのです。したがって、どのような価値観、どのような判断をするかによって自体に差別などありえないことです。その点に関して差別があるのだとすれば、それを正していくのは当然のことです。

 

上の漫画は米国のもので、ナザレンコ・アンドリーという方が翻訳をしてくれたものが下のものになります。
ちょうどこの漫画が出回った時期に、英国で王子夫妻が王室を離れるということがあったようです。一部の報道によれば、メーガンという新しい妃は、王室の習慣やしきたりを受け入れることなく「自分はできないし、しない」として自分にあわせて変更することを求めた。もっとも、伝統を維持する側の王室としては受け入れるわけにはいかず、結果、自分のために王室の習慣やしきたりを変えようとしない英国王室にたいして「自分を差別した」と受け止めたのだとか。勿論、これは一方的な報道ですので逆の立場の報道には別の「事実」もあることでしょう。ひとつの例としてあげただけです。ただ、それが事実なら、やはりそれは「差別」とはいえないものです。都合のいいように言葉をつかえば、言葉自体が間違いになってしまいます。

双方がお互いに選び取ることができるからこそ、双方がお互いを尊重しなくてはならないのです。
わたくしが幸せであるのは、わたくしの命とかかわるすべてが良いもので幸せなものであってこそです。わたくしの妻が泣いている時にわたくしは幸せではありえないし、わたくしの妻が幸せであるからこそわたくしは幸せであるのです。この逆はありません。「わたしが幸せならあなたも幸せだろう。だからわたしを幸せにしなさい」ということはありえない。あり得ないだけでなく間違いであり、かかわる命を貶めるものです。「お互い」という言葉に惑わされてはいけないのです。

極論すれば、自分の命をつくりだすということは自分の命を幸せなものにするかかわりをつくりだすということです。自分を幸せにするのは良い命や良い物とのかかわりであり、これらをわたくしどもの行いでつくりあげることができるのです。

※1『人と超人』バーナード・ショー作 市川又彦訳 岩波文庫第41刷182頁

 

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