保育園の坐禅会

8月26日、浅舞の感恩講保育園のみなさんと坐禅会を行いました。
当日はまずまずのお天気。歩いてお寺に到着した子供たちは、本堂にはいりますとすぐに用意してあった消毒剤で手指の消毒。新型コロナ流行の折、全員当たり前のこととして手を差し出してくれます。

まずは坐禅の説明をいたします。合掌、法界定印、本堂への入り方、坐蒲の使い方、警策の受け方、一通りの説明をいたしますが、一度ではとても頭に入りませんし、身につきません。わからなくていいのです。実際におこなってみますと「和尚さんが言うとおりにしてくださいね。動くのは、和尚さんが『こうしてください』と声をかけた後ですよ」ということを、みな、しっかりと守って節度ある態度で取り組んでくださいました。

位について坐蒲をもち、足を組み、みな真剣です。
1回目の坐禅では、和尚さんのお話をききながら心を落ち着けましょう、2回目の坐禅では警策をうけてみましょうということを事前にお話しておりましたものの、あわせて20分の坐禅にも、全員がよく落ち着いて取り組んだものと感心いたしたことであります。

坐禅をするとはどんなことなのでしょう。
こころとからだを落ち着かせるといいますが、こころとは何でしょうか。からだとは何なのでしょう。生きるとは、命とはなんでしょう。よい生き方とは、よい命のありようとはなんなのでしょう。坐禅とは、まさにこの命のありようを示すものであります。
命とは何かといえば(かなり大雑把で乱暴な言い方ですが)、感じる力と感じるこころをまとめて命というものだととらえてください。目で見て、鼻で嗅いで、耳で聞いて、舌で味わって、肌で感じる。そもそも感じるということは「自分以外のなにか」とつながっているということです。感じることでこころがあらわれる。冷たいから気持ちいいとか、冷たいから嫌だ、暖かいから好きとか、暖かいから日影にいきたい、とか。
わたくしたちのこころは、つながっているからこそ感じるのであって、何とつながっているのかと言えばそれは「自分の周りの感じるものすべて」であり「自分とかかわるすべての命」です。こころがあらわれれば言葉と行いがあらわれます。言葉と行いによって、よいつながりは自分でつくりだすことができます。「よいことをしましょう。悪いことはしません」ということは、だからこそ仏教の根幹なのです。いま、自分のこころと向かい合うということは、自分の命と向かい合うということであります。自分の命と向かい合うということは自分の言葉、行い、生き方と向かいあうということであります。

‥という内容をかみ砕いてごく短くお話いたしました。難しいことは省き、例えを用いましたが、皆さんが読まれるような文章にするとなると、省いたら何のことかわからなくなってしまいますね。

ちなみに、スケジュールは次のようなものでありました。
10:30  東側に着席 坐禅指導 説明
10:45  止鐘(鐘3回)    坐禅1回目 (提唱お話)
10:55  放禅鐘(鐘1回)
11:00  止鐘         坐禅2回目 (警策)
11:10  放禅鐘        坐禅2回目終了
11:15  大広間にて 水分補給
お話 または 紙芝居(時間にあわせて)

上記時間は予定。大凡1時間以内に終了。坐禅のため読経はなし。

最後にちょっと、大広間にて地獄のお話を。毎年、花祭りの時期には巻物の「地獄絵図」を見るのが恒例になっておりましたが、今年は新型コロナの影響で、花祭り自体を行なえなかったため、この機会にといたしました。

さいわい、2週間経過後した後もコロナ感染などはありませんでした。予防対策に保育士の先生方や園長先生が尽力してくださり、お寺でも対策したとはいえ、みなさん元気にお過ごしのようでありましたので安心いたしました。

※ なおコロナ流行下における坐禅会の実施に際しては、感恩講保育園自体が教室という密になりがちななかで対策をしっかり講じておられること、坐禅会自体が読経などなく声を出す機会が極端にないため飛沫感染の恐れが少ないこと、お寺でも普段からマスクの着用や手指の消毒をおこなうなどして対策をしていることなどから十分に検討して行ったことを追記いたします。

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