修行する

檀家さんなりお寺にお越しになられた方の誰かに「和尚さんご修行はどちらで?」と問われるということも時にはあります。福井の永平寺ですよと答えると「それは大変でしたでしょう」と大体こういうことを皆さん仰る。そのたびに非常に申し訳ない気持ちになります。わたくしの修行といったところで、せいぜい自分がダメだということを自覚できた程度のこと。到底「ご修行」なんて御大層なものだったと、胸を張ることなんてできません。何といっても、修業とはどんなものなのか何もわからないまま上山したのですから。

では、修行とは何なのでしょうというと、これもまた説明しがたいわけですが、試みにちょっと挑んでみましょう。
くだくだしい仏教用語はほどほどにして、まずはわたくしどもの命。命をつくりあげる根本、命を育て変化させていくもの、それを次のようにとらえてみます。

感じる力(眼。耳。鼻。舌。身。意)と
感じる心(眼識。耳識。鼻識。舌識。身識。意識)

つまり感覚をうけるもの、ところ。
で、何を感じるのかといえば、当然、外からの刺激(色。声。香。味。触。法)を受け取るので、感じるものと感じられるものはセットです。要するに感じる主体と感じられる客体。

そして、それぞれの器官がそれぞれの対象を感じることによって生まれるのがそれぞれの認識。

何か難しいことのようですが、簡単です。たとえば、わったら美味しいと感じた。ただ、それだけ。匂いを嗅いでみたらとても良い香りに感じた。ただそれだけです。鼻では味はわからないので鼻では匂いを感じる。舌では味を認識できるので、甘いとか苦いとか感じる。そうすると好きだとか嫌だとか欲しいとかいらないだとかいう気持ちが生じる。ここから命がはじまり命がつくられるので、当然、ここから修行がはじまります。

ここまで、とても大切です。諸行無常だろうが縁起だろうが、およそ仏教の教えで、この六根(感覚器官)六境(感じる対象)六識(感じたら生じる認識)を離れているということはない、というくらい重要。とはいえ、実際には、何も考えもせずただ感じている。むしろ感じていることすら感じていない。日常においては、とてつもなくどうでもいいことでもあります。鼻がなけりゃ匂いなんてわからないし、匂いがなければ鼻なんていらない。ただ、感じるからあるしあるから感じることができるし。そして、わたくしどもは、ほとんどどうでもよく受けとめているわけです。

そもそも、感覚のいちいちなんぞにかかわっていられません。どんなに集中していても、突然大砲の音がすればそちらに気がとられるのが道理。授業中にちょっと校庭で騒動があれば、みな黒板よりも校庭に気をそらされる。人生のすべてにおいて外界の刺激に晒されているというのに、その刺激に対して意識している瞬間なんて、ほんの一瞬にすぎないのです。
ただいまと帰ってきた時に、居間から楽しそうな音が聞こえれば、つい手も洗わず着替えもしないまま居間にふらふらと寄り付いて「あなた!手も洗わず着替えもせずに!」と奥様に怒られるのがオチ。人生のどれだけの瞬間、いちいち決意して自分の行動を決定しているかといえば、そんなものはほとんど皆無。ただ、そのときの刺激(色。声。香。味。触。法)にただなんとなく、というのがほとんどのはずです。人生の99%はただ決意のないなんとなく。

もう自動機械が勝手に動いているようなものです。で、その自動機械は、当然、自分に気持ちのいい、やり易い、都合のいいことだけをする。当然です。すべての感覚は「認識」を伴うわけですから、「きれい」「心地よい音」「いい匂い」「美味しい」「気持ちいい」ことがいいわけです。だから感覚の99%は気持ちいいことがいい。気持ちいいことがいいから気持ちいいことだけしかしない。誰が好き好んでわざわざ気持ちの悪い嫌いなことをするものですか。まして意識すらしていないなんとなくの時に。だからそれを「欲」という。

だからね、思うわけですよ。疲れたら休みたい、と。でも今は休みの時間ではない。だからちょっと隠れてサボってみようかとか。カップヌードルのCMをみれば、夕食前なのにちょっと食べてみようか、とか。そんな感覚に流されるだけの「欲」で幸せになれるはずがないことくらい、皆さんおわかりでしょう。
ただなんとなく感覚で生きていれば「欲」に流される。

ただなんとなくいれば、自分に気持ちいいことだけを求めるのが、自然の感覚。それが欲。といっても、世の中には当然、ただ黙っていても都合のよくないことが出てくるものです。目の前で虫が潰れたとか、ガラスがキィーとなったとか。感覚にとって嫌なこと。で、その都合の悪いものに対する思いが「怒り」。それが仏教における「怒り」。いくら言い訳しようと理屈で言いくるめようと、要は自分に都合のよくない感覚から生じるのが「怒り」。

簡単な話です。ただ感覚に流されていれば、気持ちのいい「欲」か自分にとって都合の悪い、気持ちの悪い「怒り」が出てくる。で、その瞬間その瞬間に「欲」や「怒り」のままに生きている。なんとなく気持ちのいい毎日と、そんな毎日の中で嫌なことが続いて起きる毎日。そんなものを漫然と繰り返しているのがわたくしどもの実態なのだとすれば、ああ、そうか。修行って何だかわかったような気がするくらいのことは伝わるんじゃないかと思います。

日々の殆どを、なんとなく感覚を受け入れているだけの生活、その中で「欲」と「怒り」を制御しようとする生活、修行とはそのような一瞬一瞬をのりこえていこうとするものです。だからこそ道元禅師は日々、一時一時が修行であるとお示しになられましたし、日々のその瞬間瞬間が坐禅であるとお示しになられたのです。理屈とか言葉だけじゃなく、切実に、人間の生きている一瞬一瞬にかかわる大事なのです。

毎日毎日、一瞬一瞬、そのときどきごとに「欲」と「怒り」があらわれる。感覚はわたくしどもを育てもするし縛りもします。その感覚をこそまず乗り越えなくてはなりません。
修行の根幹、第一は、眼。耳。鼻。舌。身。意。そして色。声。香。味。触。法をいかに離れるかということです。黙っていようとなんであろうと感覚は常にわたくしどもとつながっている。

だからこそ、坐禅なのだ、と。わたくしは今ならいえるのですが。
もし、本山安居中にそれをいうことができたのならと実に残念でなりません。

 

 

 

まとめ
※わたくしどもは日々感覚にとらわれ流されている
※その感覚で自分に好ましいものに対するこころを「欲」という
※その感覚で自分に好ましくないものに対するこころを「怒り」という
※この「欲」と「怒り」のくりかえしの日常を制する生活を修行という
※坐禅とはこの感覚そのものにとわられないことをいう。なぜなら感覚はしょせん感覚器官が認識しただけ。「私」とか「我」とか、そんな御大層なものではない。感覚と認識のごったまぜが、たまたま「自分」と感じられる程度のかたまりになるようなもの。