かねてより日本の礼法を学びたいと思い、礼法に関する書籍や資料を求めては目を通してはみるもののなかなか追いつきません。
一口に礼法と申しましても、挨拶からもののやりとり、歩行、食事といった日常のあらゆる事柄、さらには季節の行事にいたるまで多岐にわたっておるものですから、一朝一夕に身につくものでは無し。まして師について勉強しているわけでもなし。とはいえ、それを求めても得られないとなりますと日暮れて道遠しの焦燥感のみ強まります。

基本的には礼法に示される形は、相手を慮り尊ぶ、つまりは思い遣りの形でもあるわけですから、特にわたくしどものような人間は、所作・進退にこころがあらわれるようでありたいと思うわけです。こころがあっての所作でありますから、理由もなく形ができているわけでないのは当然のことです。

最近、どうも気になりますのは、肘を張って腹の前で手を組みお辞儀をする形ですが、あれはいかなる理由でそのようにしているものなのでしょう?
形自体が不自然で、我が国の礼法にはない形であり、むしろ腹で手を組んでのお辞儀は非礼でしょうに。
お辞儀ひとつとっても「きれいなお辞儀」というのがあるのですから、正直に申し上げて、姿勢として不自然でむしろ汚く見えるような所作は礼儀としてどうなのかと疑問を覚えた次第です。

たとえば、僧侶には僧侶としての所作進退があり、これは然るべき理由があってこそ守られ継承されてきたものですから、これを意味のないものに変えるということなどあり得ないことです。もちろん儀礼もそうで、ひとつひとつの行持に意味があるからこそ為されるべきものとして為されるのですから、とりあえず見栄えで、などという改変があろうはずがない。
礼法も同様なのではないでしょうか?

 

 

ここまで書いてみて、あぁ、わたくしはどっちかというと改変否定派。

しかし、です。
変わるべきものというものもちゃんと存在するわけです。というか変わらないものはないので、上記についても根本を変えずにという理解で。

長い時間のなかで少しづつ変わっていくことだって、もちろんあります。
3000年もむかしの、しかも気候も習慣も何一つとして同じもののないインドの習慣を、そのまま日本に持ち込んだところで意味はありません。食事作法があるのなら、インドではインドの食事作法を守ればよいし、日本では日本の食事作法を守ればよいのです。礼儀・作法というものはそういうものでしょうから、そういった部分が変わっていくのはむしろ必然。
しかしながら、意味もなくなんとなく形が変わる、しかもよりによって全く逆のものになる、ということも最近ではいろいろとあるようです。

そのことについては、徳利の注ぎ口についての話をきいたことがあります。
まぁ、もともと徳利から直接お酒は注がないわけで、お銚子に移してからのお酌です。それが徳利から直接注ぐようになって、そのために注ぎ口がついたわけですから、注ぎ口から注ぐのがあたりまえです。
しかし、最近の「マナー」なるものによると、注ぎ口から注ぐと「円が切れている」から「縁が切れる」という理由で、注ぎ口を上にするのだそうです。注ぎ口を相手に向ける無礼はこの際問題ではないようです。あとは注ぎ口を上に向けると形が仏教の「宝珠」に見えるためだそうですが、酒を飲むのに如意宝珠を持ち出すなんて論理的にも感覚的にも理解不能です。

この手の語呂合わせ的なものは、たしかに日本の伝統の中に存在するし、仏教的な習慣のなかにもありますから、まぁ一概に否定するのもどうかと思います。
会社の上司に注ぎ口は上だといわれて「いや、それは違います!」なんてのも角がたつでしょうし。ただなんとなくということがやがて一般的になるということもあるんだろうと思いますが、正直、好きにすればいいレベルの話かなぁと思います。「マナー」などという程のものじゃないですね。ただの語呂合わせとこじつけですし。

したがいまして。
どうでもいいことだからこそ、わたくしは注ぎ口から注ぐことにいたします。
なぜならというほどのことではありません、徳利の注ぎ口は注ぐためにあるものだし、日本人はそうやって楽しくお酒を飲み続けてきて、何一つ問題などなかったからです。

どんな形にも相手があるから作法があり礼があるわけで、それは同じ土壌を生きているからこそ共有されお互いに理解されるものです。
そもそも、賛否の議論を巻き起こしてしまうような『「マナー」のために生まれた「マナー」』が理解されないのは当然のことです。
日本の礼法は日本でこそ美しくこころが伝わるものです。ですから、日本の伝統の中で培われた形、それをすれば誰もが相手を慮る気持ちを受け取ることができる、そういう形を大切にしていきたいと強く願うものです。