私事で恐縮ですが物理は苦手です

簡単な事実から始めよう。時間の流れは、山では速く、低地では遅い。※1

冒頭の一行目。
のっけからこんなふうな衝撃をうけたのは久しぶりでした。カルロ・ロヴェッリ著『時間は存在しない』。題名からして意欲的な何かを感じます。とにかく時間には流れる速さの違いがあるということ。いや、それって簡単な事実なんですか?

いやいや。どうやら間違いない事実のようです。それにしても、こんなにはっきりと「私たちは、必ずしも同一の時間軸で生きているわけではない」ことを断言する言葉が、こうもあっさりと生まれていようとはまさか思いもよりませんでした。

たとえば、1979年のコルドバ国際シンポジウムでも、或いは1988年まで開催されたエラノス会議でも、ここまではっきりとした「事実」としては語られていなかった印象がありますし、もっと慎重で懐疑的な物言いであったはずです。

わたくしは科学的な考え方というか、計算が苦手です。というよりできません。数式の理解以前に、記号がなにを意味しているのかがまずわからない。ですから「科学的に証明されていないから信じられん」という発想が生まれない。科学的に証明できているかいないかということをいえるほど、科学が辿りついた深奥の事実を何一つ知らないのです。わたくしはまるで、ついこの間までランドセルを背負っていた子供のようです。「それって科学で証明できていないよね」などと言ってみたところで、眼前に広がる、科学が開拓したる大地に、ようやく一歩踏み出したばかりという有様なのです。

人類全体にしたところで、わたくしとそう大して事情は違わないと思います。大きなパースペクティブで鳥瞰しますと、多少の差異など消えてしまいます。
人類はついこの間まで、地球は平らで、地球を中心に宇宙が回っていると考えていたわけで、コペルニクスから約500年、ガリレオ、ケプラーを経てそれでも400年前後。その間、人類が天と地とどちらが動いているのか、夜も眠れないほど論争していたかというと、全然そんなことはなくて、誰もそんなことは気にしないで生きてきたというのが実際のところです。事実、カトリック教会が正式に天動説を放棄したのが1992年のことですし。つまり、天と地のどちらが動いていようと、私どもの人生にとってはどっちでも構わない事実なのです。そんなことを意識していようといまいと地球は回っています。意識しないから止まったということもありません。

因みに、空間というものがあって、その中に物質が存在しているというのが私どもの普通の感覚です。が、事実はその逆で、素粒子や光子などが関わりあい作用しあうことで空間が形作られているらしいのです。宇宙の果てまで空間が広がっているというのではなく、素粒子が構成されることで空間が生まれ続けているというわけです。エントロピーの増大などというよくわからない言葉を理解しようとしてもせいぜいこの程度が限界です。しかも間違っているかもしれない!何にせよ、時間と言い空間と言い、それ自体よくわからないものについてここまで突き詰めることができている。科学的な発展というものは実に素晴らしいものです。

とは言い条。
時間や空間がどのようなものであったとしても、普通に生きている身としては、やはり、それによって人生を左右するような事態にはならないでしょう。科学的な真実への到達とそれに至る努力を尊ぶのは当然ですが、よい命、よい生き方というものには直接関係のないことです。お釈迦様はこのような問題への取り組みを「無記」という態度で示されました。よい命を実現しよい生き方を実践する仏道修行には関係ないし答える必要のないものについて回答はなさいませんでした。勿論、よい命、よい生き方にも知恵や知識は必要ですし、時に、それが人を豊かにすることもあるでしょう。しかし、科学的な真実がどうであれ、そしてそれを知らなくても私どもはよい生き方をすることができるわけですから、知識に捉われてしまうことは、逆に視野をせばめよい生き方から離れてしまうことにもなりかねません。知識はそれ自体善でも悪でもありません。それ故、時に相反する知識同士がぶつかることもあるわけです。そこに争いが生まれるとしたなら、それはそもそも科学の求めて得たものからすら、大いに外れてしまうことになります。

わかりやすい話としては、最近のマスク。相当の根拠に基づいてマスクの着用が推奨されているなかで、皆さんマスクを着用されているわけです。逆に、やはりいくつかの事例や実験、データをもとにマスクなどしなくてもよいという意見の方もいらっしゃる。どちらの主張も根拠となるデータに間違いがないとするのなら、どこをどう切りとるかどう積み上げるかどう組み立てるかという差があるだけで、けっきょくデータ自体が右や左を指示しているわけではないのです。だとするなら、先日の呉市議のように「天が私を導いた」などということはあり得ない。
ここでわたくしが言いたいのは、科学的根拠が公平であるのならば、たとえ相反する意見でもお互いを理解しようとすることが肝要だということです。解決しない問題で不毛な言い争いをするくらいなら、他人が喜んでくれる道をとるべきだということです。

実をいいますと、ほんとうは、なぜ「他人が喜んでくれる道」を選ぶべきかを書きたかったのです。しかし、冒頭の「簡単な事実」を知った喜びと衝撃が強すぎて、話が逸れた状態からのスタートだったのです。で、それが何の役に立つのかと言われれば特に何かがあるわけでもないのです。お釈迦様がわたくしを見たとしたらどうでしょうか。無記の態度をお取りになられるでしょうか?あるいは「もう50歳もとっくにすぎているんだから、寄り道してないで自分の修行にちゃんと向かい合いなさい」と叱責くださるかもしれません。どっちでもわたくしは従いますが。

※1 カルロ・ロヴェッリ著『時間は存在しない』 NHK出版 P16 

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