はじめての入院と手術

一昨年くらいから体を壊し、今年にはいってからも救急車のお世話になったり、入院して鼻の手術をしたり、五十肩になってみたりとなかなか忙しい日を過ごしております。
ほとんど全てはじめて体験することばかりで、なるほど、救急車、入院、手術と、いままでなんとなく思っていたことと実際とはこんなに違うのだな、としみじみ実感いたした次第。

きいていたのと違うかなぁということは幾つもありました。特に、入院中の病院食。
これまであちこちでひとの話を仄聞してきたところによりますと、それは大層マズいものであるのだとか。ところがですね、普段から薄味が好き、醤油もソースもほとんどつかわず、野菜にはドレッシングもマヨネーズも何もかけず、ただ生のままのサラダを食べちゃうわたくしには、薄味は全く苦にならないので、これまで耳にしてきたような食事の苦しみを味わうことが、まずなかったのです。強いていえば、お米の量が多すぎたことくらい。病院食はマズいものではありませんでした。これは大変ありがたかった。なにしろ、鼻以外は健康なのですから。

なにはともあれ、息ができるって素晴らしい。鼻で。
細かなことはともかく、鼻で息ができないくらいの状況になってしまったのを治していただいたのですから、これはもう有難い。有難いんですが手術の前にはやっぱり怖いし、全身麻酔ってどのくらい感覚がなくなるのだろうとかいろいろ不安もでてくる。とはいえ、息ができず苦しい状態が続くので「手術?上等でさぁ!さっ!煮るなり焼くなり好きにしてくんな!」と自棄のやんぱちな気持ちがでてきたりと、まぁ、それなりに心は落ち着かなかったのです。それが、術後の経過で鼻の詰め物がとれた途端、あぁ、すっきりしたァとなるのですから現金なものです。人間存在にとって、感覚というものがどれほど切実にかかわっているのかを実感せずにはいられませんでした。

入院してすぐに手術。出血がおさまるのを待っている間、暇といえば暇なわけです。ちょっと本を読みながら、いろいろなことを考える時間があるわけです。
で、手術前になんとなく頭に残っていたのが「人間の本来が仏であるのならば修行をして悟りをひらく必要などあるのか」と若かりし頃の道元禅師が疑問を抱いたというお話。
もちろん、わたくしどもの中の本性として仏というものがあるわけではありません。わたくしどもの「人間としての欲や怒り」、それらによって積み上げられた経験や命というものをひとつひとつ剥がしていったら、ほとけに辿りつくのか、清らかな本性に到達するのかといえば、そんなものがどこかにあるわけではないのです。

悲しみは実在しません。それはこころのはたらきです。そんなものはどこにもありません。こういったらわかりやすいでしょうか?
悲しみというものがポリープのように実在して、それを見つけて取り出すことができるのならこんなに楽なことはありません。息は、吸ったり吐いたりするから息になるのであって、ちょっと口や鼻を塞いでしまえば、もう息を見出すことはできません。ただ、はたらきという形のないものでも、それを積みかさねていくことはできます。悲しみばかりではなく、喜びや怒り、執着などあらゆるはたらきを積みかさねているのがわたくしたちです。

ほとけとして積み上げていないのに、ほとけの姿を見出すことができるはずありません。だから、ほとけとしてのはたらき、ほとけとしての心のありようで行い、積み上げていきましょうというのが仏教なのです。できるのか?といわれれば、できます、ということはできます。
野比のび太くんは怠けていたから怠け者なのであって、きちんとものごとに取り組み精進していくことができたなら、もう怠け者ではありません。いつの間にか、働き者といわれるようになっているかもしれません。怠け者というのは怠けたからできあがったので、怠けなければ怠け者にはなりません。

仏教は行動の宗教です。どんな積み上げをしていくかということがとても大切なのです。そもそも、ほとけとしてのはたらきの積み上げといいますけれどね、それがちゃんとできたなら、もうほとけです。だから修行(おこない)はそのままほとけの姿ですよ、と、こういうのです。
とはいえ、修行の最中にも邪念というか、欲や怒りがでてくるのが現実の人間の姿です。手術の前後で、自分自身にそれを嫌というほど感じてしまいました。ほとけとしての積み重ねをしていこうと意識していたとしてもそうであるのなら、ほとけなんてことを意識すらしていない時間、わたくしどもは一体なにを、どんなこころのはたらきを積み上げているのでしょうか。恐ろしさすら感じてきます。

ところで。
恐ろしさという言葉で、本堂に落ちてきて彷徨っていた雀たちを思い出しました。
赤ちゃん雀からすれば、禿げ入道に抱っこされるだけでもかなりの恐怖でしたでしょうに、それでも、逃げたと思えば寄って来たり、エサを頂戴とねだったと思えば突いてきたり、しまいには抱っこを要求して掌にはいってきたりと、いろいろな感情なり思いなりを表現しておりました。一時的に保護したとはいえ、飛べもせず自分でエサも食べられない赤ちゃん雀たちがそれだけの表情をみせてくれたのですから、もっと雀のしあわせということを研究すればよかったなぁと今になって思います。

その時その時、一瞬一瞬をどのように生きるか、それがどれだけ大切なことか、身に染みて感じられた秋でした。