二宮尊徳さんは「誠明院巧譽報徳中正居士」

時々、檀家さんの目について
「あら。二宮金次郎さん!懐かしいわぁ」とはじまり「むかしはどの学校にもあったのに、そういえば見かけなくなったわねぇ」という感じの会話で終わってしまう二宮尊徳さん。
その「むかし」であったのなら、或いはもっと多くの人がもっとよくその事績も知っていたのでありましょうか。最近では名前すら知らないという方もおられるようで実に寂しいかぎりです。

話題がでるたびに住職があんまり二宮金次郎を讃えているものですから、では二宮金次郎さんってどんな方なんですか、と思われる方も当然いらっしゃる。
戒名を拝見いたしますれば、「誠明院巧譽報徳中正居士」とおっしゃいます。これだけでも人柄が十分に偲ばれると申すものです。過不足があろうとは思えません。が、敢えてお付けするとすればどのような字がふさわしいだろうかと、ちょっと考えてみました。

まずわたくしがとらえた二宮尊徳像に、試みにわたくしが諡(おくりな)するとせば、甚だ勝手で恐縮ですが、「威」という字がふさわしいのではないかと考えます。

『逸周書謚法解』によれば、
「威」とは
「彊以剛果曰威」。不屈の心で努めること(彊)によって「果」を得るものであり
「彊毅信正曰威」。心が強く物に動ぜず(毅)力を尽くして努め(彊)、邪な私心がない
ということであります。
優しいこころで優しくすることは一見その人のためのようであるし、そうすることは易しいことであるけれども、事にあたって人に厳しく接しそれがその人のためになる、しかも厳しくされた人がそれを理解し心服するということは本当に難しい。しかしその難しいことを成し遂げた人、それが二宮尊徳であります。

といってもわかりにくいですね。
より具体的に例えていうと、「アリとキリギリス」の世界を変えた人です。
「アリとキリギリス」のお話。アリは夏の間せっせと働き、冬の貯えを十分なものにしている。その同じ時間をキリギリスは遊び暮らし先のことなどまるで考えていない。やがて冬がくるとアリたちは家に籠って冬を乗り切るが、ずっと遊び暮らしていたキリギリスは家も食料もなく死んでしまう、というお話です。
お話としてはこんなにわかりやすい教訓譚はないというくらい。
ただ、現実の世界はこんなに単純なものではありませんよね。

実際、最近はやりの「分断」とやらは、キリギリスを「弱者」としようとするところからおこります。そもそもキリギリスは弱者ではありません。働かずに貯えもしなかった彼らが飢えたとしても、社会が彼らにつらく当たったということにはなりません。ごく簡単にいえば、頑張った人を認めようとすれば、頑張らなかった人との間に当然に差はでてきますが、それは差別ではないし、社会の側の問題でもありません。

アリたちにとっての「弱者」とは、まだ働けない子供であり、年取ってもう働けない親であり、病気の兄弟であり、ケガで障碍を得てしまった友人等であるのであって、十分働けるにもかかわらず働かず遊び暮らしたあげく困窮したキリギリスのことではありません。
好き勝手遊び暮らしたあげく、困窮した「弱者」だからと権利を主張されれば、アリが納得いかないと反発するのは当然です。頑張った者、努力した者、一生懸命力を尽くしてきた者がまっとうに報われて欲しいと思うからです。

この問題の根本的な解決は実に単純です。キリギリスがきちんと一人前に働けばそれでいい、ということです。とても難しく一朝一夕にはいかないことではありますが、キリギリスの怠惰がすべての問題と対立の原因なのですから、これをなくそうとするのは当然のことです。そして、それを実行し実現したのが二宮金次郎という人なのです。
彼は一円観という信念を得ています。決してキリギリスを「弱者」として遊ばせてはおかなかった。それは社会を分断させてしまいますから。
一見、厳しく慈悲のないようですが、その人を遊ぶことしかできない無能のまま社会に立ち向かわせる方が、よほど無慈悲というものです。最近ではこれを「優しい虐待」と称するようです。
キリギリスが怠惰になった要因を探し出し、それを根絶するところからはじめ、根気よく、実に気の遠くなる忍耐力で彼らを立ち直らせていきます。
彼はキリギリスを憎んだのではありません。
勿論、過ちを叱責し正道に立ち返らせるための努力を惜しむことはありませんでしたし、いったん立ち直れば、信頼し共に道を歩む同志として遇したことからも、その人のことを真に思っていたことは疑いのないことのように思えます。
衰え荒廃した村でやる気をなくして怠惰に陥っていた人間が、二宮金次郎の復興事業の後には勤勉な人間となり、復興した村で安心して暮らせるようになったのです。かつて怠惰だったのも今勤勉であるのも同一の人物なのです。しかも一つの村のみならず、複数の広大な地域において。このように、一生をかけて、皆のために、その地域のために、そしてその行いの帰するところ、もっと大きな国や国民のためにと行った稀有の人物が二宮金次郎なのです。ここで、最初の「威」という字を思い出していただければ、二宮金次郎がどのように徳をほどこしたかということを何となくお分かりいただけるのではないかと思います。

もしアリとキリギリスの間に分断というものがあるとするのなら、それをどのようにとらえればいいのでしょう。二宮金次郎はただ大きいだけの理不尽な声に屈することはありませんでした。折れて曲がればとりあえずうまくいく、と逃避するのは簡単ですが、やはりそれでは人も社会も守れない。なんだバカバカしいとアリが働くのをやめ、アリもキリギリスも毎日遊び暮らすようになった時、果たしてアリとキリギリス、本当に後悔するのはどちらなのでしょうか?

そんな泥船に自分が乗るわけはないし他人にすすめて乗せるわけにもいかないですね。多少でも二宮金次郎の精神が現代にも生きるようにしたいものだ、とこのあたりまで書いておったのですが・・・

8月の19日にひっくり返ってしまい、生まれてはじめて救急車のお世話になるということがございまして、ずっと手つかずになっておりましたものです。

体調は、9月の頭にはもうだいたい元にもどっておりましたのですが、記事に関しては、頭にあった内容がどこかにとんでいってしまいました。今はやりの新興宗教についてであったことは覚えているのですが。
まぁ、一度区切って次回に回しましょうということで尻切れトンボの文章でありました。