龍泉寺開創  永禄年間 (1558~1570)
 御 開 山  増田町 満福寺3世梅翁正倫大和尚
 開  基   浅舞城主 小野寺左京亮友光 (龍泉院殿即山清心大居士)

寺伝に、永禄年間(1558~ 1570)、浅舞城築城にあたり、浄土宗の草庵を移して菩提寺となしたと伝えられている。但し、ご開山梅翁正倫大和尚は、文亀元年(1501)年に遷化していることと、二世の梅室壽泉大和尚がそれより先の康正2年(1456)に遷化していることから、勧請開山と考えるのが自然ではないかと思われる。同時期に同じく梅翁正倫大和尚によって創建された沼館蔵伝寺は文亀元年、または永正年間(1504~1521)の創建と伝えられている。
寺伝によれば、当山の歴代住職は下記表の左段の通りである。
また菅江真澄によれば(秋田叢書第六巻『雪出羽道「平鹿郡八淺舞村〇曹洞宗龍泉寺」』)下記表の右段のように記載されている。
ただし、火災による焼失により記録が失われて確認できない点が多くあるのは、甚だ残念である。

開基 小野寺友光公について

小野寺友光墓所
小野寺友光墓所案内

最後の浅舞城主(小野寺左京亮友光 天正18年:1590年 9月29日没)。

天正18年(1590)年、太閤検地の横暴な仕方に反発して起こった仙北一揆の責めを負い、自害したともまた戦死ともきく(『雪の出羽路』)。しかしながら、一揆は9月下旬に起きたとあるうえ、一揆収束を10月半ばとみれば(上杉景勝の感状に、10月14日「千五百余成敗、悉追払得」との記載もある。)没年月日が一揆収束以前であるため、あるいは伝聞の誤りも考えられる。一説には天正14年の有屋峠の戦いにて戦死ともあるが、時代等があわない。

 

さて、友光公がいつどのような次第でなくなったのかであるが・・・

下総鮭延寺縁起という資料があるらしく、その示すところでは天正18年3月に、朝舞(浅舞)にて上杉景勝の士と鮭延秀綱の従者の間に諍いがあり、朝舞の郷民が上杉に与力したとある。

小野寺氏の客将であった鮭延氏が背いたのが天正9年であるとすれば、それによって最上の侵攻を招いたものとして、鮭延氏が浅舞衆に反感を持たれたのも頷けるし、のちの関ケ原で上杉方についた小野寺氏を鮭延氏が攻める展開になったのも、あるいはこの事件が伏線になっていたのかもしれない。この事件の結末として郷民数名が責めを負うこととなったが、浅舞城主が罰せられたとの記載はないようである。

また、菅江真澄による「友光塚」の由来を記した一節によれば、天正15、6年ころ、淀君のいいつけで巡検使がめぐりきた。が、権威に傲りあまりに横暴であるため、これをきいた友光は大いに怒り、密かにこれを討とうとしたという。結果、3,000ほどの軍に浅舞を囲まれ、川を下って逃れようとしたが※1、討手もあり、新平川の小中島という処にあがり自害したとある。友光が巡検使を討とうとしたのは天正17年、自害は天正18年のことであるという。

秀吉の奥州仕置きが天正18年7月以降であることから、菅江真澄の記述もあいまいであり決定的なものではない。しかし、のちの最上勢との戦いぶりでは、浅舞の軍勢になみなみならぬ敵愾心が感じられる。上記の何が原因であるにせよ、城主の無念を晴らすべく、というのはもちろん想像に過ぎないのではあるが・・・。
なお、前述の菅江真澄の記述により、友光の妻は馬鞍城主関口能登守の娘、友光の娘は柳田治兵衛尉の妻とある。また別の記述で小野寺義道の子とされる。一説に小野寺光道と同一視されることもあるが、小野寺光道には、「光高道盛信士」という戒名があるため、別人と考えるのが自然であろうと思われる。また、小野寺氏の嫡流また庶流も含めて、名には「道」の字がつけられることがほとんどであるため、この点からも、義道の子だとすることに疑問が残る。あるいは、輝道の弟である光明※2の系図に属することも考えられるし、浅舞の土豪が小野寺氏の一族化したか、あるいは小野寺氏が浅舞氏に入ったのか、資料の少ないことが残念である。郷土史に造詣の深い方々の教えを乞うものである。

本堂須弥壇には座像が祀られている。また、墓所は市の指定文化財となっている。

脚注

※1 浅舞は地下水が豊富な地域であり、『浅舞郷土史第六巻』に付録されている「浅舞城概略図」をみれば浅舞城は大宮川に囲まれた水城であったようである。
  (詳細は『浅舞郷土史第九巻』に記載あり)その造りは城や要塞というよりは優雅な館のようにもみえる。水に浮かぶそれゆえ包囲された状態から逃げることができたのであろう。
※2 松岡氏所蔵小野寺系図(『小野寺氏研究資料』第三篇)によれば、輝道の弟に光明、重定の名があり、それぞれ 光明浅舞永泉寺 重定三梨桂薗寺 と記載されている。