水エボ地蔵さま

地蔵堂
境内にある地蔵堂のお地蔵さまは「水エボ地蔵」と呼ばれています。その昔、中国地方(島根県との伝あり)からはるばる長旅をして秋田までいらしたお地蔵さまです。その道中、馬方が休憩するたびに、一服、また一服とタバコをくゆらせます。なにしろ長い旅のことでもあり、浅舞に到着されたころには、すっかりタバコに慣れ、お好みになられておったそうです。
ところで、この水エボ地蔵様ですが、実はイボをとってくださる「いぼとり地蔵」さまです。ありがたいお地蔵様です。

水エボ地蔵さん
イボを取ってほしいと思われましたら、まず、お地蔵様にお参りしてください。その時、「お線香」「ろうそく」そして「タバコ」に火をつけてお参りするというのが、ちょっと変わったところです。
お参りなさいましたら、地蔵堂の前の手水(地下水が汲み上げられています)を汲み、改めてお地蔵様の前にお供えし、心中に「イボが取れますように」と祈願します。お水は持ち帰って冷蔵庫等で保管し、それをイボのところにつけてみてください。(写真:水エボ地蔵)

手汲み水
昔から、イボがとれる霊験があるといわれており、今でも、水を求めてお参りになる方がいらっしゃいます。(写真:手汲み水)
普段は赤い前掛けに包まれているので見えませんが、お地蔵様の背中には、時代や寄進者について以下のように刻まれております。
『貞享四丁卯年三月廿四日 仙北淺舞村 髙橋久左衛門』
貞享四年丁卯(ひのとう、ていぼう)は1687年で3月24日は今の5月5日頃。当時は石見の国と称しておりました島根、全く縁もゆかりもなさそうですが、全く結びつきがないわけでもありませんでした。横手と石見をつなぐ縁、人や書簡の往来も、頻繁にではなかったでしょうが、確かにあったのです。
ところが、1672年に出羽と大阪を結ぶ北前船の航路が完成されたことで、出羽の米が大阪を介して効率よく運送できるようになり、これまで細々と続いてきた人の往来が、格段にしやすくなりました。
このことは横手の人々にとってちょっと複雑な思いを抱かせる出来事だったかもしれません。というのも、横手城の主でありました小野寺義道公は慶長6年(1601年)領地を召し上げられ配流の身となり、石見の国のお預かりとなっておりました。そして正保2年(1645年)、実に40数年を経て、かの地で逝去いたします。その間、確かに、人・書簡のやりとりもなくはありませんでしたが。
旧主は己を慕う人とただ会うことすらままならない失意の身です。望郷の念はやまず、いまは遠い出羽の懐かしい人々の便り、その文字もかおりを求めても、いつ届くということもない故郷のしらせなのです。できることなら、旧主の生前中にこそ、その航路が完成してほしかった、と。そのように横手の人士が思ったとしても不思議はありません。
しかし、それほど心待ちにしていた便りといっても、その全てが楽しいものばかりでは当然なかったはずです。例えば、横手に残した一族、旧家臣のゆくすえなどなどについてはそうでしょう。或いは、旧家臣であった武士たちが新領主の佐竹氏に出仕するにあたり、先祖の武勲や家系などを尋ねてきたものなどには、やはり寂しさのような思いを抱いたのではないでしょうか。家臣側にも、忝くもやむにやまれず連絡を取らざるを得ない事情があったのだと、頭でわかってはいたとしても。
なんにせよ、人・物の往来が比較的頻繁に行われるようになってきたのが、1687年という頃です。ですからお地蔵様を船で連れてくることも比較的容易であったことでしょう。ただ、なぜ石見という遠国からお地蔵様をお連れしたのか。その理由については疑問が残ります。
これは想像ですが、石見の国で新たに彫ってもらったお地蔵様を出羽へお連れしたのだと考えるのが一番自然です。背中に自分の名を彫っている点からしても、地元で信仰を集めていた地蔵尊をお連れしたものとは考えにくい。では、なぜ、わざわざ石見で彫り、手間をかけ長距離を運搬してまで出羽浅舞まで連れてきたのか。
それはご供養として。
そのご供養とは。 望まぬかたちで異郷の石見で亡くなられた出羽、横手の方々の霊を、お地蔵さまに託して故郷にお連れしたのではないのか、そのように思えるのです。また、そうでなければ、石見から出羽まで新たに地蔵像を彫って連れてくる理由も意味も他に見いだせないのです
お地蔵さまは、まずは高橋家の墓所に安置されたでしょうか、それとも、高橋家の墓所は地蔵堂のほぼ隣と言っていいほど近い場所にあるので、或いはすぐに龍泉寺の地蔵堂に安置されたのでしょうか。いずれにせよ、異郷で亡くなられた方々はお地蔵様の姿になって帰ってきてくれた。手を合わせる人々も静かに迎えてくれたでしょう。さぁ、出羽の浅舞ですよ、あなたは故郷にかえってきましたよ、と。
それから330年余。地蔵堂の中に安置されてきた水エボ地蔵さまは、恐らく当時とそんなに変わってはいません。表情もはっきりとしておられます。当時の方々のおもいもそのままに宿しておられることでしょう。
貞享4年の頃。その2年前には将軍綱吉が「生類憐みの令」をだし、その2年後には、松尾芭蕉が奥の細道に旅立つ、そんな頃に浅舞にこられたお地蔵様です。